第1章 おかえりの雨
「はあ、疲れた。お、ただいま。」
急に玄関の扉が開いた。が驚いた顔で後ろを振り向くと、見慣れたような、懐かしいような姿の彼が立っていた。くたびれたスーツに、はずしかけのネクタイ。険しく疲れた顔が、を見つけた瞬間、くしゃりと笑って崩れる。不覚にも心臓がどきりと跳ね、何も言えずにいた。
「最悪。めっちゃ濡れたわ。外、雨すごいよ」
数十センチ上から、疲れきった、ちょっと不機嫌な声が降ってくる。それは、まるで強い雨のように、の心を打ち付た。
それから、傘立てに濃紺の傘が無造作に投げ入れられる。雨に濡れたそれは、の赤い傘に寄り添うように収まった。は、ガタンというその少し乱雑な音を聞いて初めて、(ああ、帰ってきたんだ)と実感していた。
「電車遅れててさ。もうちょい早く帰ってくっ」
「おかえり。雄一くん。」
は思わず抱きついてしまった。そして、さっきまでのよく分からなかった感情が、寂しかったからだと気づいた。
「ちょっと、濡れるよ?」
雄一は、半分苦笑いをしながら、驚いたような、そうなることを知っていたかのような手つきでの頭を優しく撫でた。
さっきまで、いびつさを残していたフレッシュオレンジの香りが、だんだんと一体になっていくのをは感じていた。
「いいの。こうしたいの。」
数秒の間が空いて、雄一の観念したかのような声が響いた。
「俺も。ずっとこうしたかったよ。」
雄一がそう言うと、今まで頭を撫でるだけだった両手がを抱き締めた。意外にたくましい腕が、余すとこなくを包み込む。雨に濡れたスーツの向こうの雄一の体温が、少しずつに伝わっていき、大きくて暖かい何かに包まれているような、不思議な感覚だった。
「。」
名前を呼ばれて、は顔をあげた。目に写ったのは、見慣れたような、懐かしいような、変わらない笑顔だった。それから、その笑顔が一瞬だけ真剣になったかと思うと、優しいキスが、それこそ雨のように降ってきた。