第6章 送り梅雨
コーヒーの独特な香りがふわりと鼻腔を抜ける。コーヒーは苦くて飲めないけれど、このコーヒー独特の香りは嫌いじゃない。
「いい、香りですね」
ゆっくりとコップの淵を撫でながら、私は彼に語りかける。
「あれ?コーヒーの方がよかった?」
そう尋ねてくれる彼に、ふふっと笑う。もう初めて会ったんだとは思わないほど打ち解けあっていて驚いた。
「いいえ、私コーヒー飲めないんです。だからブラックのコーヒー飲める人って凄いなぁって思うんですよ」
淵からゆっくりと取っ手に手をつける、紅茶の温かさで少し熱のあるカップは今の私のようだ。
「そうなの?俺、ブラック飲めるよ!すげーだろ?」
ちょっと得意げな声と台詞に、思わず笑ってしまう。そんな笑い声の邪魔をしたのは、ボーンと低い音をたてて時間を告げるなにか。
「うおっ!びっくりした!なんだよ、柱時計か」
「わ、私もびっくりしました」
鐘の音が2人の心臓の速さを同じくらいにしたのは、言うまでもない。
「そろそろ出ましょうか?」
長居してもダメだと思い、この楽しい時間に終止符を打つのは私の一言だ。本当の事を言えば、まだ帰りたくないという本音が見え隠れする。
「そー、しっぶし!」
「だ、大丈夫ですか!?」
変なくしゃみに大袈裟に反応してしまい、手を前に差し出す。ほんのり熱を感じた瞬間、慌てて手を引っ込めた。
私、今また触ろうとしちゃった。かあっと顔に熱が集まるのを隠すように、横に置いたカバンを漁る。
何処に何があるのかはカバンの位置で覚えているからすぐに目当ての物を引っ張り出す。
「これ、使って下さい」
そっと差し出したのは、お気に入りの刺繍の入ったハンカチだ。
「そんな綺麗なハンカチつかえな...」
「いいですから、ね?」
遠慮する彼の言葉をふさいで、半ば無理やりハンカチを手渡した。
「ありがとな」
掠れた声がお礼を告げれば、自然に自分の口角が上がるのがわかる。脳が嬉しいと認識する前に、もう心が嬉しいという気持ちでいっぱいになっている。
その感覚は心地よくて、それでいて気恥しかった。