第30章 紺碧の涙・前編(上杉謙信/悲甘)
「ーー姫」
「聞いているのか」
意識を取り戻した私は、重い瞼を持ち上げた。
ぼんやりと霞む視界が次第にはっきりと輪郭を捉える。
見たことのない部屋…。
視線をあげると、見知らぬ男性が私と向かいあっていた。
ここは、現代…ではない。
「良いか、此度の上杉の関東出兵、またとない機会となる」
神妙な面持ちで話しを始めるこの男性の言葉に、私はただ耳を傾けるしかなかった。
「お前の命は、父の、この国のためと思え」
…何を言っているの?
自分の置かれている状況がまったく理解出来ない。
これは夢?
「わかったな。お前を、上杉へ人質に出す」
上杉って…
「許せ、伊勢よ」
伊勢…姫?
その名を思い出し、途端に胸の奥がきつく音を立てた。
伊勢姫は…
昔謙信様が、愛した人…。
でも、どうして私を伊勢姫と呼ぶの?
問いかけたいことが溢れるのに、声が出せない。
するとー
「わかっております、父上」
喉の奥から、私のものではない言葉が発せられた。
何?これは一体何なの?
私が…伊勢姫?
違います!私は伊勢姫じゃない!
必死に声を投げかけるも、それが言葉として届くことはなかった。
「下がってよい」
私の意志を無視するかのように、この身体は勝手に立ち上がり、部屋を後にした。
辿り着いた女性らしい部屋。
鏡台の前に腰を下ろすと、鏡に映る姿は私ではなかった。
あなたが…伊勢姫。
声が出せなくて、心の中で問いかける。
何故、私を呼んだの?
何故、私があなたの姿をしてここにいるの?
不意に心の中に語りかけられるように声が聞こえる。
(…許して)
消え入りそうにか細く…寂しそうな声が。
この人の中に在る悲しみが、まるで私の悲しみのように、胸の奥へと一気に流れ込んでくる。
もしかして…
あなたは私に、何か伝えようとしているの…?
その時頬を伝った涙は、私のものではなかった。
続