第30章 血、潮。
カムクラはそれを難なく避けながら、容赦なく誉稀の手を掴んで壁に押さえつけた。
「あなたですか……こんな遅くに物騒ですね」
耳元で囁かれる。カムクラの低く抑えた声が、部屋で眠る姫に配慮されたものだと思うと殊更に泣けてきた。
『……っ、……。』
声もなくしゃくり上げる誉稀の手からナイフを取り上げ、カムクラが溜め息を吐く。
「王族を襲った自覚はありますか?僕だけならまだしも……彼女にこの刃を向けたのだから、知った仲とはいえ見逃すわけにはいきません。衛兵に引き渡すので大人しく来てください」
誉稀の細い両手首を片手で掴みながら、カムクラが引っ張る。
『…………。』
ドアを開けようとナイフを持った手でドアノブを掴んだとき――飛沫が飛んだ。
誉稀が勢いよく、カムクラの持つナイフ目掛けて自身の首を振り下ろしたのだ。
カムクラの手や頬に冷たい血がかかる。潮の香りが部屋に漂った。
『……っは。』
声が戻った。誉稀は浅い呼吸を繰り返し、喉から溢れ出る血で溺れながらカムクラを睨み付ける。
『この、おんしらず……』
何とか絞り出せた言葉は、ただの憎まれ口だった。
愛している。だけどそれ以上に恨めしい。
体が少しずつ失われていく。脚が泡になり始め、その場にくずおれた。
咄嗟に抱き止めるカムクラの顔は、いつもの無表情なのにどこか訝しげなものだった。
『(……どういう感情なんだろ。まあ……もう関係ないか)。』
ああ可笑しい。そんでもって哀しい。
カタチを保てなくなった誉稀は静かに泡と消えていった。
「………………」
ドアの前、カムクラがしゃがみこんだまま手や床に付着した泡を茫然と見つめる。
やがて泡までも完全に消え失せた後カムクラは立ち上がり、そのまま寝室を出ていく。
遠く、波の音が聴こえた。