第30章 血、潮。
寝台の近くに佇み、静かに呼吸を繰り返す。
『…………。』
今夜までに王子と結ばれなければ命はない。姉たちが手渡してくれたナイフを握り締めながら、誉稀はまだ迷っていた。
『(これをあの人に刺せば私は死なずに済む。だけど、殺したくない……)。』
王子の寝室に忍び込んだ誉稀は、目を閉じて穏やかな呼吸を繰り返すカムクラをただ静かに見つめる。
真っ暗な中、暗闇に慣れた夜目がぼんやりとその輪郭を捉えていた。
『(……この人を傷つけるくらいなら、いっそのこと、私が)。』
ナイフの切っ先を自分へ向けて構える。
このまま泡になって消える運命だとしても、本当に愛した相手の幸せを願えた末の行動なら、幾分受け入れられる気がした。
目に涙を浮かべながら、自身の胸元に刃を当てる。
「ん、ぅん……」
ふと女の声がした。カムクラよりも奥、少し離れた隣で誰かが寝返りを打つ気配があった。
求婚された隣国の姫だ。声が私に似ていたらしい。
あの嵐の夜にイズルくんを助けた、私の声に……。
『……!。』
女の存在を認識した瞬間、誉稀の心はある衝動に支配された。
ナイフを胸から退け、刃を上向きに持ち変えてベッドの反対側へズカズカと歩いていく。
『(私なのに……そこは私の場所だったはずなのに!!)。』
許せなかった。何も納得いかない。
イズルくんと結婚するのも、イズルくんの傍で寝るのも、イズルくんの一生の伴侶になるのも、全部この女が持っていってしまった!!
『(こんな女さえ居なければ……!)。』
生まれて初めて抱いた明確な殺意。
なんの躊躇いもなく誉稀はナイフを思い切り振り上げ、穏やかに眠る女に突き立てた――はずだった。
刃先が女の肌に届く一瞬前、誉稀は誰かに手を掴まれた。
暗闇の中で、赤い瞳がこちらを見据えている。
『(いやだ……何でこの女を助けるの? 私以外、大事にしないでよ……)。』
大粒の涙を溢しながら誉稀が手を引くと、カムクラは凶器を持つ侵入者を制圧しようとベッドから降りて誉稀に迫ってきた。
『(……怖い。そんな鋭い目で見ないで! なんで、なんで私だって分かってくれなかったの!? こんなことになったのは、君のせいでもあるのに……!)。』
誉稀はぎこちない動きでナイフを振り回す。