第1章 近くて遠い君 ※【黒尾鉄朗】
「梨央ちゃん?」
名前を呼ばれて立ち止まる。
ゆっくり顔をあげてみれば、そこには昼間電話をした彼がいた。
出張から戻ったのかな。
片手にはボストンバッグを持っている。
傘をさしたてっちゃんが足早に近づいて来て、私を中に入れてくれた。
「どうした?まあまあ降ってるぞ?」
本当だ。傘が欲しいくらいには降ってる。
気づかなかった…。
「傘……持ってなくて」
「そりゃ、見りゃわかるけど…」
「折り畳み傘もなくて……」
「……」
てっちゃんは黙ってる。
行き交う人が私たちの周りをすり抜けていく。
そっと手を引かれた。
てっちゃんの、大きくて温かい手。
人の流れから離れた場所まで移ると、静かな声が上から降りてくる。
「彼氏とケンカでもした?」
ケンカ……とは言えない。
ケンカは、お互いが正面を向き合ってするものでしょう?
私たちは、違う。
てっちゃんは返事を急かすことはせず、ジッと私を見てる。心配そうな瞳で。
そりゃそうだよね。
雨が強くなってきてるのに、傘もささず、雨宿りするでもなく、走るわけでもなく。
何か言わなきゃ…。
だけど、生理中のセックスを拒んだら気まずくなった、なんて。
私の取り柄は彼を気持ち良くさせることだけ、だなんて。
てっちゃんに言えない……。
「無理に話さなくていいよ」
「……」
「家に帰るとこ?」
「うん…」
「んじゃ、家まで送らせて」
てっちゃんちは……私の家とは反対方向だったはず。
そんなの、悪い。
そう思うのに…。
そばにいて欲しい。
だってほら。
てっちゃんは、きちんと私の顔を見てくれる。
歩幅を合わせて歩いてくれる。
私を言葉で傷つけたりもしない。