第8章 暗香疎影
同時刻。
太宰が森と、凄まじいほどの舌戦をしている時。
三島と中也が、遠き西方にて、火蓋を切った時。
しとしとと雨が降っていた。
会話らしい会話もせずに、その赤髪の青年と
やけに音の立たない所作をする女性が歩いていた。
雨は二人の身体を濡らし、しかし女性は純白の着物故に紺碧の羽織を着ている。
まるで、今 西方で奮起している
あの花園の彼の瞳の色を抜いたかのような、黒混じりの濃紺。
自分の前を歩く青年……織田作之助、織田作は幽霊のように力なく歩き続ける。
瞳は枯れていたが、焚き火のような蛍火は鳶色よりも明るく輝いていた。
……『ミミック』のリーダーのいる地図を千切れんばかりに握りしめながら。
求める価値のあるものは、手に入れた瞬間に失うことが約束されると
彼の友達である太宰が言っていた。
自分自身をあざ笑うかのように、そう言っていた。
「織田作」
真綿が、いつものような、森に囁くときと同じ高さの声で、その背に言う。
しかし一瞬間に合わず、ドンッと織田作に誰かがぶつかった。
「わあ!」
ぶつかったのは、小柄でハンチング帽を被った、利発そうな少年だった。
織田作との背丈の違いで衝撃が大きかったのか少年が尻餅をつく。
ばらばらとその腕いっぱいに抱えていた荷物が、路面に散らばる。
「君、何するんだい! 前を見て歩かなくちゃ駄目じゃあないか!
って、嗚呼、社長に貰った探偵道具が……」
真綿と織田作が、散らばる荷物を拾った。
記録紙、筆、写真機……鑑識用の証拠品 保管袋まで。
少年は確かに探偵と言ったが、軍警の証拠採取係 並みの品揃えだった。
「あんた、警察か?」
織田作がつい尋ねる。
しかしその言葉に、少年が顔を歪めた。
「警察ゥ?」
その細められた目がさらに細まり、警察と一緒にされることの嫌悪感を現した。
「あんな無能連中と一緒にされちゃ困るよ!
この僕を知らないのかい?
じき日本中が知ることになる名前なのに!
じゃあこれで覚えておいてよね、僕こそ、世界最高の名探偵、
江戸川––––」
まるで江戸雀のように、矢継ぎ早に会話を押し付けてくる少年だった。