第38章 消滅……I
「ねえ上橋。
ある偉大な御仁がね、こんな本を書いたんだ。
人間にあるべき姿…という規範だよ」
目の前の彼はそう笑い、花畑の中央に佇んでいた。
靄の掛かる虹色の雨粒は、何とかしてこの世界から切り離された異物たる夢を打ち壊そうと空から降り続ける。
「一、人には優しく自分には厳しく。ニ、心身ともに健康である……まあ、これは保険機関の憲章にある通り。
三、嘘を吐かない。四、友好関係は大切にする」
ゆびおり三島幹部が淡々と述べていった事柄は、人間として守るべきものだとその偉人はいう。
「さあ、これをどう思う?」
「全て理に適っていますし、守れたなら素晴らしい人になるでしょう」
上橋菜穂子は端的に返した。
およそ肯定し得る限りを守れたならならば、それは素晴らしい。
誰にでも好かれる解答は、上橋菜穂子自らが自身に従って出したものじゃなかった。
「じゃあ、ここを坂島だとしよう。
全ての現象も言葉も行動も逆さまになるとして、同じ質問を君にもう一度問おう。
なんて答える?」
三島の瞳が徒らに細められた。
その目線に背筋がぞくっとする。
しかし菜穂子は成るべく動じずに答えた。
「私はほんの四つしか挙げられていない事を守りきれる自信はありません。」
「うん」
三島が頷いた。
「人には優しくしつつ、自分は心身ともに健康で、
甘えは許されず、
嘘なんて言葉すら知らない上に友好関係は大切にする……
…だなんて、聖人にでもなるつもりですか。」
菜穂子が忌々しそうに吐露した。
嗚呼、彼女のこういう感情もその表情も滅多に見られないものだと三島は内心で感心する。
「上橋からそういう意見を聞けるとは思ってなかった」
「いいえ、三島幹部は私がこういうと質問した時点で判っていました。
だから二度同じ質問をしたのです」