第37章 天の花嫁
「坂島––––ですか」
「嗚呼」
「坂島……」
一方、中也の執務室へと三島からの資料及び報告書を届けに行った菜穂子がそう平坦な声で反芻させる。
中也が印を押していったものを回収し、朱肉が判子に吸い込まれる。
「300人ッつーのが今いち規模的に判らねェって顔だな」
「……はい。私の思考は低俗な方へ傾いています。
たった300人かと思ってしまう自分が、この上なく、途轍もなく愚かしいのです。」
言葉を選ばずにそう言った菜穂子の顔は無表情に彩られ、口元は笑みによって緩むことはない。
三島がどうして、無条件に好意を向けてくれている格好のエサ……否、リソースの上橋菜穂子の夢を喰まないのか。
その笑みも涙も、三島にだけ向けることを知っているからか。
タチの悪過ぎる確信犯じゃないか。
気に入らない。
「仕方ねェと思うけどな。
ポートマフィアでさえ構成員は1000人を軽く越してる。
こンな一つの組織と対抗するのは、一つの町だぞ。
いくら小さいとはいえ、たったと思い至ッても仕方ない」
中也からの言葉は菜穂子の言葉を直接肯定するものだった。
甘えではなく同調だ。
「ただ、あいつならこう言うだろうな。
『その300人はあくまで個人だから、離れて暮らす世帯や身内を入れたら数は2、3倍に膨れ上がる。
それをたったと言えるのか』
……ッてな?」
生易しい考えは時に油断を生むものだ。
あいつの言葉はそれを一蹴する。
たった300人なら切り捨てられるのかもしれない。
その油断は毒杯になるからと。
「……申し訳ございません」
「良いッて。……俺だって同じだったわけだしなァ…」
それでも菜穂子は目を伏せない。
強い光をもつ瞳は伏せて逃げることをしない。
「愚かしいのは……」
俺の口から零れた言葉は、すぐ前に立っていた本人には聞こえなかった。