第36章 此処からまた
「判っているだろう」
真冬が髪の水分を拭いながら、リビングに移動した。
君にとって、一度決めた主人を裏切らない事を誇りにしているから……私のさっきの言葉なんて、世迷言にも等しい。
暗殺者が雇い主を裏切って介錯する話なんて裏社会じゃよく聞く事だ。
一緒にいるうちに、主人について行けないと見限った時。
主人の善悪を測って裏切るかを決めるのではなく。
「そういう者が、最後にはこう言うのだ。
全てを台なしにしておいて、『こんなつもりではなかった』。
……そう吐かす。」
己が幸福を……その人の値で測ってはならない。
そう言った真冬の顔は、何を思っているのかよく判らない。
その目が見ているのは、誰?
「……それじゃ福沢社長は、真冬の思想に合っていたから未だ繋がっているのかな?」
「……否…それも、少し違う気がして」
ドライヤーのコンセントを挿して、冷風を髪に送る真冬が
冷めた瞳でどこかを見ていた。
ずっと遠くを見渡すかのような、そんな目。
その目が少し、怖いと思った。
もう自分の知る彼女がまったくいないみたいで。
いつからそんな目をするようになったのか、とか
かつては自分が一番真冬のことを知っていたと自信があったのに……今は……
「違うって……何が……?」
「あるじ殿は……この世の全異能者を救いたいとお思いだった。
妾はその時、そのような物は夢物語だと、世迷言だと一蹴したのだが……」
すと真冬が淡いクリーム色を帯びる白熱灯に左手を翳す。
照らされた手のひらに赤みが差す。
今ここで生きている、血の色だった。
真冬の黒い瞳には、慢性的な諦めがある。
「それでも君は……社長と乱歩さんならやれるかもしれないと、期待しているんでしょ…?」
私から零れた声は少しだけ低くて、知らない真冬がこれ以上前に進むのを
否定しているように思えた。