第34章 甘くて苦いもの
「苗字」
「嗚呼、苗字だ」
名はある、なら姓もなければならないだろう。
人としてあって当然のもの。
長らく真冬は、福沢という姓を借り受けていたものの、それが真実になる時は来なかった。
今、この場を除いては。
「真冬をあの日、あの雨の日拾ってきたのは乱歩だ。
真冬の名の名付け親も乱歩だ。
だが……」
「現実的なことを考えて、福沢殿の苗字の方がこの先
色々と誤魔化しが効く……か」
世界指折りの暗殺者、
その冠を捨て去ったただの女性である自分に出来る範囲は狭い。
この先、双方に何らかのことが起きた時、苗字が無ければ色々と面倒だろう。
「とはいえ、真冬。
お前は……色々と有りもしないことを吹聴しているそうではないか」
「……その言い方も色々と誤解を招くぞ、我があるじ殿?」
からかっていると一瞬で判った。
福沢はその水銀を細め、目の前の彼女を見る。
「これを機に、本当に福沢になる気はないか」
乱歩をなでていた、真冬の手が止まった。
乱歩の翡翠もまん丸になっている。
そして一番的確でナイーブな部分をためらわず突いてきた。
「そ……れは、真冬が社長の養子になるの?
それとも、矢ッ張り流した噂通りに夫婦になるの?」
乱歩の問い、珍しく彼のその双眸が大きく見開かれていた。
「そうだな。真冬は––––––……」
どちらが良い、そう聞こうとして社長が渦中の真冬を見、言葉が詰まった。
「……あれ?」
乱歩もそんな声を漏らす。
何せ、滅多に照れもしない真冬の白い頬が
心なしか赤く染まって見えて––––––