第9章 ン
▼視点:影山▼
—————好きだなぁ。
そう、微かに鼓膜を震わせたその声に、俺は今まさにボールを投げ上げようとしていた手を止めた。
(…………………?)
気のせいか。いや、そんなはずはない。
俺が彼女の声を間違えるはずなんてない。そう、ずっと焦がれてやまない、愛しいの声だけは。
好き、だと。確かにそう言ったように聞こえた。
(好き…………)
確かめるように心の中でそう呟いて、瞬間、トレーニングウェアに包まれた胸のあたりが急に激しく脈打った。
どくり、どくりと。血液が音を立てて体中を巡っていく。急に血圧が上がって、不意に頭がくらくらとした。の声がまるで耳元で囁かれてでもいるみたいに、頭の中で反響している。
『好き』
それは……伝えたくて、でも言えなくて、そっと胸の裡に押し込めていた。俺の、への想い。
ちらり、とに視線を送った。彼女は細い腕を懸命に動かし、転がったボールを拾っている。その更に先には及川さんがいた。…と従兄弟であるとの、専らの噂の。
—————付き合っているのだろうか、とか。彼氏なのだろうか、とか。様々な憶測が飛び交ってはいたが、俺は努めてそれを無視した。知ってしまえば、きっと平静ではいられないだろうと、自分自身で分かっていたから。
だから今も、微かに胸をちくりと刺した感情を密かに封じ、なんでもない風を装ってボールを宙へと投げ上げた。助走し、床を蹴り、思い切りボールを前へと打ち出す。
「うわッッ!!」
ネットの向こう側で、悲鳴を上げて飛びのいたのは田中さんだ。ボールはエンドラインを大幅に超え、壁へと激しくインパクトした。俺は大きくため息をつき、次のボールを手に取るべく踵を返した。その時。
『あの、』
それはまるで、縁台で風に吹かれて涼やかに鳴る、風鈴の音のような。夏の熱い空気を一瞬で吹き冷ますその声は、俺のすぐ隣で聞こえた。
息を呑む俺の前に映るのは、白磁のように透き通るそのまろい頬。
『ボール、…どうぞ』
「あ、ああ。さんきゅ」
つい先ほどまでお前のことを考えていた、などと言えるはずもなく。曖昧に返事をして、そのボールに手を伸ばす。と、
ボールを取ろうとした手の、その指先が、不意に彼女の指先と触れ合った。