第6章 空の青さを知れど海の蒼さを知らず
「ほい、なら早々に去なんとならん。他に当てがないでもないでの。磯辺と行き違いになっては困る」
伊草は含み笑いして袖に手を潜らせた。
「迷子になったら動かぬ事。とは言え、次善の策に待ち合わせを抜かりなく打ち合わせるのが肝要よな」
「…待ち合わせか」
綱手は苦笑して卓についていた肘を伸ばした。
草は薬の売買を巡ってあちこちに繋ぎがある。その草の薬事院の外相司となれば、個人的に含みのある伝手もあろう。
そして牡蠣殻は、砂や、音、暁と関わりがある。それが今現在どういった形で生きているのか定かではないが、定かではないからこそ目放しならない。
「なかなか抜け目ないな。アンタは勿論だが、牡蠣殻。存外食えないようだ」
「何の、わちも磯辺も間抜け者での。全く困ったもんじゃいな。人の世話にならん事には手前の始末もつけられん体たらくよ」
邪気を匂わせない伊草がむしろ剣呑で、綱手は鼻にシワを寄せた。
「…いいだろう。一先ずアンタは木の葉の客分だ。あちこち動き回られちゃ厄介そうだからな。迷子はじっとしてるに限る」
…五代目は砂や音を牽制したいのか。暁…暁はどうなんだ?あれは他里とどう関わりがあるのか?
綱手の出した結論に波平は眉をひそめた。
やれやれ…
大きな里は万事煩雑で厄介事が多い。
力のある里同士になると目に見えない駆け引きがどれ程ある事か。
…その駆け引きに巻き込まれぬように、磯は隠れ里になったんだ。
ぼんやりと波平は父の事を思った。
大国と取り引きを始めたとはいえ、磯は今も隠れ里。恐らくはこれからもずっと。それが磯だ。
姉杏可也と、長老連を思う。
磯はこれでいいんだ。散らばって定住する者も私と共に流離う者も、木の葉を住処にした者たちも、磯を在所と心得ている。
それを理解してくれ。
草は磯が夢見て叶えられなかった里の形ではない。磯は草のようには生きられない。
私は蛙だ。器が小さいのも宜ならん。
磯という井戸で泳ぎ回ながら空を見上げ、海へ飛び出す野望を抱く事なく全て知ろうとしている図々しく怠惰な蛙だ。
知らぬものがあるからこそ知るものがある。前はそれでいいと思った。
だが今は無様に双方取ろうと藻掻いている。これからの磯の為に。
磯辺。
お前はもう空より他の色を知ったか?鮫と会って海の色を知ったか?
お前は変わってしまったろうか。