第5章 1864年 ー文久四年・元治元年ー 【前期】
二人は俺に気がついていないようで、会話が聞こえてきた。
「今日はもう休め。無理はするなと言ったはずだ。」
「無理なんてしてないよ?大丈夫。」
「嘘をつくな。顔色が悪い。」
「………」
「…目を背けてもよかったんだ。俺だってはじめは直視できなかったし、幾度となく吐いた。」
「………」
「いいか、夢主(姉)君。これから嫌というほど同じような現場に遭遇する。いずれは慣れてしまうだろうが、今は無理をしなくていい。」
「………」
「今日は本当に頼む仕事がない。仕事が入れば呼ぶから、気を使わずに休め。」
「…ありがとう。」
山崎は夢主(姉)に微笑んで、その場を去った。
山崎が去ると、夢主(姉)はその場にへなへなと座りこみ、やがて啜り泣く声が聞こえてきた。
ああ、この女は怖かったのか。人の死が、血が、その姿が…
静かに泣いて震える小さな背中から、しばらく俺は目を離せなかった。
ふと、泣き声が押し込まれた。どうやら俺の気配に気がついたらしい。
気配には鋭い。
「………何か御用でしょうか?」
「いや…すまぬ。あんたと山崎の話を聞いてしまった。」
「………」
夢主(姉)は振り向かずに言う。
「……見られちゃったかぁ」
その声はいつもの夢主(姉)で、振り向いてはいないが、振り向く時はきっといつもの笑顔なのだろうというのがわかる。
何故そんなに隠すのか。
怖かったと涙を流してすがりつかれても、きっと山崎も俺もあんたを蔑んだりはしないのに。
「…秘密にしてくださいね?」
いまだこちらは見ず、フフフと小さく笑ってそう言った夢主(姉)の小さな背中を、俺はそっと抱いた。
夢主(姉)は一瞬びくりとしたが、そのまま何も言わず、俺の腕の中に動かずにいる。
「…誰かに言うつもりなどない。泣け。」