第8章 知らない方が幸せです、の段。
とにかく、土井先生の私服はそれしかなくて。
忍術学園の先生方の洗濯物は、椿が来るまではそれぞれ個人で行われていたのだが、椿が来てからはそれを仕事として担うようになった。
だから、土井先生の洗濯物は人一倍気にかけている。
「か、勝手なことをしてすみません」
繕い物をしながら、たまに羽織ってみたり抱きしめたりしていた椿は、内心冷や冷やしてしまう。
「謝る必要はないさ。すごく助かってるよ」
土井先生は椿の手を取り、その上に包み紙を置いた。
(きゃー!! 土井先生の!手が!私の!手を!!)
期待通りの反応を見せる椿を乱太郎たちは生暖かい目で見守っている。
土井先生はというと、その様子に気付かないのか「町を通ってきたから」とにこりと笑いかけてくる。
「は、はい…!」
一体何だろうとどぎまぎしながら包み紙を開くと、蛤が一枚。
「こ、これは!」
椿は驚いて開いた包み紙を閉じた。
ただの蛤、ではない。
貝殻の内側に紅を何度も塗り重ねて作られる、お紅蛤だ。
最上級のものは京紅と言われ、蛤の表面も美しく装飾が施されている化粧品である。
手の平に載せられた蛤はなんの装飾もなかったけれど、それでも女子の心を鷲掴みにする、定番の贈り物の一つだ。
濡らした薬指で貝の紅を溶かして唇へ。
子どもの頃は紅差し指――薬指のことだ――に紅がついていれば、それが大人の女性の証のように思えたものだ。
勿論、今も椿は紅を差している。
忍術学園に来てからは毎日だ。
少し高いけれど、土井先生に美しく、可愛く見られたいと思うから。
「わ、私が頂いてもいいのですか…?」
「もちろん」
「ありがとうございます…!! 嬉しいです!」
お紅蛤を両手で大切そうに胸元で握り締める。
紅なんて、好意がなければそうそう贈るものではない。
それが嬉しくて嬉しくて、椿に犬の尻尾がついていれば千切れんばかりにブンブンと振っていただろう。