第1章 第一話
「―――――――……」
咽喉に、何かが張り付いている。
声を上げられないまま、私はその場に立ちすくみ、ただ母の死体を眺めていた。
母は人形のように、怒りもしなければ悲しむこともあまりない人だった。作り笑いも多かったが、笑顔だけは心から浮かべていたように思う。けれど、それ以外の感情表現が乏しい母のことが、私は少し苦手だった。
私に向けられたあの笑顔は、本当に私が考えていたような作り笑いだったろうか。
もっと話をしていれば、こんなことにはならなかっただろうか。どこにも根拠のない、この事実と関わりのないはずの疑問が、私の中で弾けて回る。どうにもできないまま、私はその場で、石像のように凍りつく。
どうしたらいいのかなどわかりきっているはずなのに、身体が言うことを聞かない。足は鉛のように固まり、腕は神経を全て抜かれたかのように感覚がない。鼻をつく強烈な鉄の臭いと、赤く染め上げられた母の姿だけが、色鮮やかに私の世界を彩る。
思考が止まり、ただ死体を見つめる私の背後で、何かが落ちる音がした。
その途端、今まで凪いでいた私の感覚が、津波のように蘇る。
何かがいる、何か恐ろしいものが、この家にいる。それは街中ですれ違うような安全な人々ではない、理解できない別の生物だ。それは私の命を、人生を、最悪の歯牙で奪う獣だ。
足先から、とてつもない恐怖心が脳天へと突き上がってきた。思わず叫び出しそうになる口を両手で押さえ、リビングの入口を振り返る。
そこには―――私の視線の先には、なにもない。
視界の下で、先ほどまではなかった何かが、力なく蠢いた。
「――――――ぁ…………か…」
"朝霞"
これまで幾度となく、その声で、私の名前は呼ばれてきた。感情の読み取りにくい声だったが、そこに肉親の愛情があったことは、いつだって理解していたのだ。
決して好きではなかった。嫌いだと思うときの方が多かった。鬱陶しいと、いなくなればいいと、いったい何回思っただろう。
それでも、今目の前で、かすれた声で私を呼ぶ人は、紛れもなく私の肉親で、私を愛してくれた、父親だ。
「―――ッ父さん…」
私が声を上げて、手を伸ばし、床に膝をついた時には、父の目は生気を失っていた。唇がかすかに震え、瞼が次第に閉じていく。