第1章 第一話
事が起こったのは、私が高等課程を終えた、当日だった。
もう二度と足を運ぶことはないだろう校舎から離れ、玄関のドアを開けると、まず一番に不快な臭いが鼻をついた。今まで嗅いだ事のない、むせ返りそうなほどの濃厚な、何かの臭い。
けれどもそれは、どこかで嗅いだ事のあるものだった。ただあまりに臭いが強すぎて、一体どこで嗅いだのか、すぐには判別できなかった。私がもう少し察しの良い人間であれば、もしかしたらこの惨状を見なくて済んだのかもしれないが、けれどもやはり私は、気づいていてもこの場所へ足を運ばずにはいられなかっただろうと思う。
母の死体の、前に。
自分の目が捕らえた光景が、脳内で処理されない―――――処理しようとしない。ただ目の前の事実を拒むように、薄く白い紙が何枚も何枚も脳に張り付いていく。べたべたと、真っ白な思考を押しつけてくる。
これは感情の部分だった。
理解したくない、受け入れたくないともがく感情に対し、私の理性はどこまでも冷静に、目の前に落ちている物体が何なのかを整理し始める。投げ出された四肢、赤く染まった部屋着、今まで見たことのない、苦痛にひしゃげた母の、顔。
それは皮肉にも、生きていた頃の人形じみた母からは想像もできないほど、人間じみた母の顔だった。
おそらく、母は殺される瞬間に、自分が人間であることを本当の意味で理解したのではないだろうか。痛みや、苦しみや、恐怖心。生きたいと願う、死にたくないと願う、本来は人間にもあったはずの生存本能を、取り戻したのではないだろうか。
死人のようだった母は、死人になって人間になった。
機械に飼い均された私たちは、機械のように命令をこなせば、安全で安心で、平凡な日々を繰り返すことができると信じている。
そしてこの世界では、それが当然だった。それが当然であるべきだった。
それがまるで、さも当然のように、奪われる、瞬間。
母は一体、どうしたのだろう。