第10章 恋の季節(3)
時間もあれば、その沈黙を幾らでも許容していたことだろう。
だが、通話時間のタイムリミットも迫っている。
俺は、黙り込んだ彼女に告げる。
「天海、難しい話ならば今までどおりで構わない」
呼び名1つで何かが変わるということもあるまい。
俺は、自らの我が儘に天海を付き合わせようとしたことを却って申し訳なく思い、今日はこの辺りで電話を切ろうと心に決した。
『…わ……し、くん…』
その決意を穿つ声。
細く、たどたどしく、聞こえづらい囁き。
「天海?」
『…わ、若利、くん…』
――声で。
躊躇うように揺れるその声で。
心臓を、一掴みにされた。
俺は、空いている右手を額に当てて、目を閉じる。
にわかに騒ぎ出した鼓動が耳に痛い。
『もしもし…?』
案ずる声音。
『うし……若利くん?』
言いかけたのをわざわざ訂正して、そうまでして呼ばれる名前の、今までに感じえなかった特別な響き。
――名前1つで何かが変わるということもない?
数十秒前の自分の、無知であるがゆえの不見識に、俺は「馬鹿か」と言いたくなる。
違う、こんなにも違う。
『…ごめん、思っていたのと何か違う?』
「あぁ」
俺は答える。
目を閉じて、彼女の声だけを耳朶の奥底に、俺の中に、落とし込んで。
「違った。お前の声で聞く俺の名前は、俺の名前では無いように聞こえた」
『…そ、そう言われると、なんか恥ずかしい』
「そうなのか」
『うん…。うし…あっ、違った、若利くん』
2度目の言い間違いに、俺は苦笑する。
向こう側で、釣られた天海も笑いをこぼした。
「さっきも言ったが、難しいようであれば“牛島”でも構わないが…」
『が?』
「…どうやら、お前には下の名前で呼ばれた方が嬉しいことは確かだ」
『善処します……』
「…どうした?」
『う…若利くんがこんなに天然な人だとは思いもしなかったなぁ、って』
「天然…?」
『うん。…さて、そろそろ20分かな?』
重い腰を上げるように彼女はゆっくりと終わりを知らせた。
もうそんな時間かと惜しむ気持ちが時計の針を煩わしく感じさせる。
『…牛島くん、春高だけど…』
出し抜けの言葉に俺はカレンダーを見やる。
『勝つところ、見に行くから』
これ以上ない励ましに俺は
「最終日は混むから早めに来るといい」
と助言した。