第3章 夏の思い出(2)
遠ざかる背中を見送り続け、たぶんもうこちらの声は届かないだろうと思われた頃。
「牛島くん、巻き込んでしまってごめんなさい」
俺の方へ改めて向き直って、彼女が言った。
俺は「天海」と口にしてから、思い至って「…さん」と敬称を付ける。
それは当たり前のことなのに、短い間でも呼び捨てにしていたからか…変に違和感を覚えた。
それは向こうも同じのようで、微笑して
「天海でいいよ。直接の先輩・後輩ってわけでもないんだし、この方がお互い楽だよね?」
と何事でもないように話した。
俺はその言葉に甘えることにして、彼女――天海に目の前の結論について確かめる。
「追わなくていいのか?」
「…自分から追い払っておいて?」
彼女が湛えた微笑に陰が差し、自虐的な色が増す。
裏の事情など知らない、知る由もない俺は、それ以上踏み込むことはせずに話題を転じた。
「今日は試合、もう終わったのか?」
「うちの学校? この後、2回戦。あぁ、改めて、2回戦突破おめでとう。約束、守ってくれてありがとう」
「約束?」
「あ、約束っていうのはまた違うか。双方向じゃないものね。あれは『お願い』っていうのかな」
1人で話しながら納得して、天海は再度「お願い…」と綺麗な響きの言の葉を紡ぐ。
俺は、その音色が次に綾なす台詞を聞こうと口を噤む。
だが、一拍後、俺に言葉を投げたのは彼女ではなく。
「若利!」
我に返ったように俺は思い出して白鳥沢が陣取る客席へと目を向けた。
監督とコーチを除いたほぼ全員が俺を見ている。
コートを一瞥した。
試合はもう始まる。
「…色々ありがとう」
天海がチームメイトたちに軽く会釈をしてから、俺を仰ぎ見た。
真っ直ぐな眼差し。
昨日よりも至近距離からの。
昨日よりも少し親しげな。
「牛島くん」
大事なことでも言うように、彼女は、俺の名前を示す「音」を、1つ1つ丁寧に発音する。
そして、
「明日も、勝って、ください」
歌うように、魔法でも唱えるみたいに、告げる。
そして彼女は頭を下げると俺の横を通り抜けて行った。
俺は何も返さずに見送ってから自分の席へと戻る。
途中、列の端に座っている天童が、すれ違い様に「今度こそコクられた?」と聞いてきた。
俺は一旦口を閉じてから
「お願いとやらをされた」
とだけ答えた。