
第8章 軍隊狸ーゴールデンカムイ、月島ー

満州の東北地方に位置する奉天で戦闘が繰り広げられたのは、明治三十八年、雪風舞うニ月二十二日から三月十日迄の十八日間。
厳寒の最中での激戦だった。
日露戦争の雌雄を決したこの会戦で、俺は図らずも連隊から独り逸れて山中に嵌った。
どれが誰とも知れぬ血泥と怒声、火器の大音声に混みれた奉天で、敵兵と追いつ追われつしているうち、気が付くと辺りが随分と静まり返っていた。
あれだけ耳を劈いていた火器の音も鉄鍋で爆ぜる豆か熾で破れた木の皮の様な、まるで他人事の絵空事かと思われる程、遠く聞こえて深山に紛れる。
間もなく日暮れる頃だ。汗で濡れた体がいっぺんに凍え始めた。満州のこの時節、夜間から明けまでは氷点を割る。単独で山中に居るこの状況を打開するにこれは深刻な障壁となる。何としても迅速に連隊に合流すべきだが、その為にどう動くか。
今はまだ火薬の火花が見える。あれを頼りに先ず下山する。周囲に敵兵のある可能性は排除出来ない。
極力音を立てぬように、辺りへ目を配りながらの道行きは寒さや疲れも手伝って、一向に捗らなかった。思うより高所まで彷徨いこんだか。
火花を目視しつつ定法に逆らい沢伝いに麓を目指すも、現状を鑑みて足を止めざるを得なくなった。右脹脛に痛み、見下ろせばひどい出血がある。
沢から離れ、ゲートルの上から傷を確認する。穴が空いている。どうやら撃ち抜かれたらしい。
ひとつ息を吐いてから足の付根を縛り、ゲートルをきつく巻き直して止血し、背なの樺の木に寄り掛かる。麓の火花も消えた。辺りはしんとして真暗い。野宿の支度をしなければならない。
右足への加重を加減しながら立ち上がろうとしたとき空っぽの腹が鳴った。痛みに気付かなかったように、空腹にも気付いていなかった。思えば一昼夜ものを口にしていない。兎に角水だけでもと、再び沢へ歩み寄ろうとしてよろける。
その体を、不意に誰かに支えられた。
「…ッ」
咄嗟に肩に掛けた三十年式歩兵銃を掴む。
「止しなされ。儂は味方」
耳元で聞こえた声に目を上げれば、人の良さそうな丸顔が目に入った。人は良さそうだが轟々とした眉の下の目光が尋常ではない。あまりの目力に正気の者なのかと疑った。
「ふ?儂がきょといか?おとっちゃまじゃの」
俺の内心を読んだように、丸顔の男が笑った。笑うと目色が和んで、子供のような顔になる。
「…きょとい?」
