第6章 アン・ブーリンとマナーの話 ーHP 、ダンブルドアー
互いに身動きならぬ状態がどれ程続いたか、不意に蹄の音がしてわしと王妃はハッとした。
顔を巡らせれば栗毛の見事な駿馬に跨がった威風堂々たる人影がこちらへと近付いて来るのが見えた。
わしは咄嗟に一歩退がり、深く頭を垂れた。
騎乗の人影はヘンリー八世じゃったんじゃ。
王と王妃が揃われたからには、略式の礼ではすまされまい。膝をつく事も考えんでもなかったが、何せ足元には王妃の頭が転がっておる。あまり間近に顔を寄せるのも無礼じゃろうと思ったんじゃな。
ヘンリー八世はその肉付きのいい体からは思いもよらぬ身軽さで栗毛から下りると、わしの肩に手を置いた。
はてと顔を上げると、気難しく勘の強そうな顔が笑っていた。迷惑をかけたなと言わんばかりにわしの肩を二三度叩き、ヒラリと王妃の体を抱き上げて栗毛の背に乗せる。
それから、気恥ずかしそうに目を伏せる頭を拾い上げ、肩をすくめて頷いて見せた。
わしがもう一度礼をとると、彼はかつての寵妃にその首を渡し、自らもサッと栗毛に跨がった。
栗毛は幾度か蹄を鳴らして足踏みすると、二人を乗せてギャロップで湖水地帯の闇夜に消えて行った。
残されたわしは唖然とするばかり。
正直、驚いていない振りをするのも忘れておった。
王と王妃が長い年月の末に和解したのか、それとも王が気まぐれを起こして気の毒な王妃を救いに来たのか、そこらへんの事はわしにもわからん。わからんでいい事じゃと思うとる。プライベートな問題に踏み込むのはマナー違反じゃ。
同様に、わしは湖水地帯の散歩を止めた。世を去ってわしらには想像のつかぬ物思いを抱えた人々の邪魔をするのは、矢張りマナー違反に他ならんからの。
悪戯に世界の違う相手の日常を掻き乱すものではない。これは肝に命じるべき事じゃ。
わしでさえ驚く事があるくらいなんじゃ。
何が起こるか、わからんからの。