第1章 序 ー失せる童女とうねる手とー
幼い頃、不思議な体験をした。
磯の波際で遊んでいたときの事だ。
まだ心持ち涼しい夏の午前、打ち寄せる海の水は生温かく、足を浚う波は穏やか、東から湿やかに吹く潮風の中、陽は何心無い様子でただ照っている。
気が付くと海の中程にクルクル水の渦が上がっていた。
小さな竜巻のような水の渦。
目を凝らすと、渦の中に童女がいた。
小さな頭の上にきっちり結った髷がチョンと載っているのがやけにハッキリ見えた。気候に逆らった厚手で地味な色合いの袷が、渦の中で煽られてハタハタと翻っている。
立ち尽くして見守る中で、童女が此方に顔を巡らせた。
一瞬、確かに目が合った。慌てたような目色が、寸の間助けを求めかけて反れる。
助けるには遠すぎるし、第一どう助けていいのかもわからない。
思わず手を伸ばしかけたその先で、水の渦が水面から跳ね上がって童女ごと消えた。
生温かい風がヒュッと体を巻く。海の風ではない感触に身が震えた。
童女の消えた辺りに長い腕が何本も伸びていた。空を掻いてもの狂おしげにうねっている。
反射的に海から足を上げた。
見つかってはいけない。息を殺して後ずさる。うねり続ける腕から目を反らしてソッと辺りを見回しても童女は見当たらない。
静かに磯を後にして、それきり。
「あー、不思議な事ってありますよねえ・・・・私も子供の頃にはよくえらい目にあったモンですよ」
神出鬼没の技を持つ里を出自にする女が能天気な声で言う。
きっちり結った髷に地味な色合いの袷が小憎たらしい。
成る程。あなたでしたか。
鬼鮫は顔をしかめて空の湯呑みを卓に伏せた。
「・・・そのえらい目にあったとき、波際に人陰を見た覚えはありませんか?」
聞かれて女はちょっと笑った。
「ああ、あれはもしかして貴方でしたか」
「あなたあのとき一体何をやってたんです?」
「波に浚われた里人を探していたのです。磯はあの頃まだ海辺に里を構えていましたから海に呑まれる里人も少なくなかった。潮の流れを読んで彼らを探すのは巧者の仕事なのですよ」
女は遠い目をしてうっすら笑った。
「そうした事をしていれば、ああいった事は珍しくはないのです。幼かった当時は怖いばかりでしたが、今思えば切ない事、海は寂しく冷たいのでしょうね」