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短編集【庭球】

第71章 いのち短し 走れよ乙女〔忍足謙也〕


一氏くんからはおそらく私のことは見えていないけれど、日直の片割れが私だと知ったら彼は露骨に嫌な顔をするだろうな、と考えると無意識に身体がこわばった。
やっぱり足止めしてしまっていたのだという罪悪感、待つのが苦手な謙也くんにそれを強要してしまったことへの申し訳なさ、自分への不甲斐なさと情けなさ。
いろんな感情がないまぜになって、私に容赦なく追い討ちをかける。

ああ、私の存在が今ここで煙みたいに消えてなくなってしまえばいいのに。

容赦のない一氏くんに謙也くんが応戦するのを聞いていると、自分がどんどん余裕を失っていくのがわかった。
いや、もともと慣れない環境にぎりぎりの状態だったのかもしれない。
彼らにしてみればなんということはないジャブのつもりなのだろうけれど、上手い避け方を知らない私は、それを全部まともに受けてしまう。
避けたり受け流したりすることを覚えるだけの気力も、食らっても立ち上がって向かっていくだけの体力も、私にはもう残っていない。

じわりと謙也くんの輪郭がぼやけてきて、慌てて手元に残っていた最後の一枚の作業を終わらせる。
それを集計済みの山に加えて抱え込んで、ついでに謙也くんが作業してくれた分もひったくって、私は走った。
教室を出るところで「あとやっとくから、待たせてごめん」とかけた声は、不自然に震えていただろうか。
「うあ?! え?! 林?!」と驚く謙也くんの声と「はあ?!」と怒った一氏くんの声が聞こえたけれど、構わず走った。



泣きながら全速力で走る、少女漫画にありがちなシーンだけれど、あれは嘘だと思った。
だって、こんなにすぐ呼吸が苦しくなってしまうなんて聞いてない。
こんな状態でスピードスターの異名を持つ謙也くんから逃げられるわけもなくて、私は階段のところであっさり追いつかれてしまった。
泣いてさえいなければもう少し速く走れたのだろうか。
もし泣いていなくても、彼から逃げ切ることなんて元からできなかったのかもしれないけれど。


「待ってや、林!」
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