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短編集【庭球】

第71章 いのち短し 走れよ乙女〔忍足謙也〕


「ひ、引いてないよ! ただ、私はジュースの方がいいなあと思っただけで」
「そりゃまあジュースのがウマいけど…」
「やっぱりおいしくないんじゃん」
「ちゃうねん、マズくはないねん! マズいけどウマいねんて!」


大いなる矛盾をジェスチャーつきで力説し始めた謙也くんが面白くて「なにそれ、どっちなの?!」と吹き出すと、彼は少し驚いたような表情を見せた後、にいと笑って「ちゃんとできるやん、ツッコミ」と言った。


「え?」
「こういうんは慣れが大事やもんな。心配しとったけど、林もちゃんと笑いの素質あるやんか」


お笑い文化に馴染みきれずにもがく姿を見られていた気恥ずかしさよりも、努力を認めてもらえた喜びの方が大きかった。
それに何より本当に嬉しかったのは、他でもない謙也くんが気にかけてくれていたからだった。
恋を淡く自覚した瞬間に心臓が走り始めてしまって、「そ、そうかな」と応じるのがやっとだった。


* *


月に一度の日直が回ってきた。
日直なんて日替わりの雑用係を体良く言い換えただけだと思っていたのに、謙也くんがペアだと途端に嬉しいと思ってしまう私はなんて単純なのだろう。
担任の気まぐれで放課後の作業を言いつけられたときは、内心ガッツポーズをしてしまったくらいだ。
一刻も早く部活に行きたいだろう謙也くんには申し訳ないけれど。

頼まれたのはアンケートの集計だった。
単純作業ではあるけれど、なにせ学年全員分だからゆうに三百人分はある。
担任は「スピードスターのお前を見込んで、頼むわ」と調子よく謙也くんをおだてて、慌ただしく職員会議へ行ってしまった。
最初は気乗りしないという表情を隠せていなかった謙也くんは「そこまで言われたらサボるわけにいかへんよなあ」と嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔に私の心臓はまたどきりと大きな音を立てて、また命が削られているのを感じたけれど、そんなことは思いもかけないだろう謙也くんが「よっしゃ、ちゃちゃっと終わらせよか!」と腕まくりをしながらプリントの山に手をつけ始めた姿を見て、彼も私に負けず劣らず単純なのかもしれないと思った。
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