第71章 いのち短し 走れよ乙女〔忍足謙也〕
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謙也くんとまともに言葉を交わすようになったのは、席替えのあった日。
「よろしくね、忍足くん」と何の気なしに呼びかけたら、彼は一瞬の間の後、弾かれたようにこちらを向いて「おん!」と頷いて、苦笑いしながら「その、忍足くんってやめてくれへん?」と言った。
私がどういう意味だろうと首を傾げると、謙也くんは「一瞬誰のことやろって思って反応できひんかったわ、なんや呼ばれ慣れへんからこそばゆいっちゅー話や」と、手をひらひらさせて。
続けて「謙也、でええから」と白い歯を見せて笑った彼のことを、私はお世辞でもなんでもなく、まぶしいと思った。
私の謙也くんに関する知識といえば、テニス部であることと足がとても速いこと、何かにつけて速度を求めるスピード至上主義者であることくらいだったけれど。
その日以来、窓の外を見るようなふりをしながら窓際の席の彼のことをそっと盗み見ることが増えて、彼が数学を得意にしていることや、かわいらしい消しゴムを集めていることなんかを知った。
テストのときには開始の号令がかかると、伏せて配られた問題用紙を目にも留まらぬ速さで裏返すから、用紙が破れてしまうんじゃないかと心配になるくらいで。
誰よりも早く解き終えて教室を出ていくときは少し誇らしげな顔をするのだということも、実はまともに見直しをしていなくてケアレスミスが多いのだということも知った。
テストが返されたあと、白石くんが「毎回言うてるけど、時間はあるんやからもっとちゃんと見直さなあかんわ」と呆れ気味に言うと、謙也くんは「待ち時間みたいやん、焦れったくて死んでまうわ」と口を尖らせていた。
もし席が隣にならなければ、謙也くんが紙パックの青汁を毎日欠かさず飲んでいることには気づかなかっただろうと思う。
二週間前、私が「いつもすごいの飲んでるよね」と声をかけると、彼はストローから口を離して「あ、今引いたやろ! ウマいんやで、これ」と鮮やかな緑色のパッケージを私に見せつけてきた。