第8章 桜の精
桜まで行くと、先客がいた。
腰までのふわふわしたパーマのかかった髪が少し風になびかれ、桜吹雪に身を任せ、手を投げ出してまどろむ様子は、本当に桜の精だと思った。
外界との境目が薄く見えて、ぞっとするくらい美しい。
足元に立ってすやすやと呼吸が聞こえようやく人間だと思いホッとすると、吹かれた風にスカートが少し持ち上がった。
起きるか少し待ってみたが、起きないので学ランを膝元にかけてやり、隣に腰かけ本を読んだ。
しばらくすると桜の精は伸びをして、人の気配を感じたのかこちらにぼんやりと視線を移した。
寝ぼけているのか焦点のぼやけた瞳が艶めかしく、目が合うと不覚にもどきりとした。
「すまない、静かな場所で本が読みたかったんだが、先客がいたので…」
声に反応したのか目がぱっちり開かれ、じっとこちらを見る桜の精。
思わず言葉を失うと、桜の精はきょとんとした表情から眉間にぐっとシワが寄った。
そんな風に嫌悪をむき出しにする女子に会ったのはおそらく初めてで、少し怯む。
「ここ、私の場所だから、もう来ないで」
眉間のシワはそのままに、忌々しげにそう言う彼女をじっと見てしまい、ますます訝しげに見返された。
ここは自分のお気に入りの場所でもある。私の場所、と言われてしまい、ますます困惑する。
こんな綺麗な人を見たことがなかった。
線の細いシルエット。
光に透けて艶やかに波打つ髪。
「君は「なに?」
被せるように不愉快そうな声がして、少し申し訳ない気持ちになる。
「俺も、この場所を気に入っているのだが、君がいない時は来ても良いんだろうか」
「私だいたいここにいるから、どうかな」
不愉快だ、という顔を崩さない彼女がどうにも人間に見えない。
彼女は気怠げ立ち上がると、地面に敷いたハンカチを拾い上げ、ぱたぱたと土を払い、さよなら、と呟くように言って走り去ってしまった。
追いかければ自分の足なら追いつけると分かっていたのに、何故か足が動かなかった。
揺れるウェーブのロングヘアを見ながら、心のどこかで桜の精にしか思えずひどく混乱した。
さよならの声と、微かに香った甘い花の香りが、脳を刺激して夢ではないと知らせる。