第19章 幻怪(R18:月島蛍)
電話に出なければよかった。
声を聞かなければよかった。
目を、背けていればよかった。
そうすれば気付かずに済んだのに。
夫が子供みたいに泣きじゃくって、一晩中私を探して、ボロボロになっていたこと。
そんなの、知りたくなかった。
『……帰っ、きて、ください』
夫は泣いていた。
今まで一度も言ってくれたことのなかった言葉を、涙でぐずぐずになった声で必死に紡いで、泣いていた。
『絢香が、いないと、……っ僕は、息をすることすら、できない』
『君がいれば、あとは、何もいらない』
『だから、……っ、帰ってきて、絢香』
他の美容室に行けばよかった。
他の美容師に当たればよかった。
彼と、出会わなければよかった。
そうすれば傷付けずに済んだのに。
彼のことも、夫のことも、誰のことも傷付けずに済んだのに。
私は、──……
「……何やってんだろ、私」
冷めていく。
冷えていく。
たったひとときの夢幻。
熱に浮かされた情事の夜。
でも、もう全部おしまい。
【ごめんなさい】
脱衣所の鏡に、ルージュの赤。
扉越しの彼に宛てた短い手紙。ごめんなさい。さようなら。シャワーの音に隠れて涙を流す。
現実からも、夢幻からも、逃げるようにして後にしたホテル。ふと、立ち止まったひとりの朝。
「──……最低」
朝陽が恨めしいほどに、眩しくて。
幻怪【了】