第13章 鬼と豆まき《弐》
言われるがまま傍に腰を下ろす男も、艷やかに微笑む蛍も、実弥のことなど少しも気にしていない。
まるでその場にいないような扱いに、実弥は出そうになった声を押し留めた。
(これはァ…今目に見えているもの全てが幻覚か?)
蛍が見ていた者も、呼びかけていた者も、実弥ではなかった。
透明化した実弥を通して別の男を見ていたのだ。
「暑かったでしょう。お茶でも飲んで、喉を潤して──」
「柚霧っ」
促そうとした蛍の手を、男が前のめりに両手で握り締める。
(柚霧?)
聞いたことのない名だった。
蛍と瓜二つな別人なのかとも思ったが、実弥のその疑惑はすぐに晴れる。
「ようやくそれなりの金がまとまったんだ…今度こそお前を身請けできるっ」
「……正一さん」
「お前だってこんなみずぼらしい店で働き続けるのは辛いだろう? 俺がお前を此処から救い出してやるからな…ッ」
「正一、さん」
「その後はずっと共に暮らそう! 夜だけじゃなく、昼間明るい所で沢山お前の笑顔が見たいっもっと沢山、柚霧と愛の契を交して」
「正一様」
常に物静かだった蛍の声が、ぴんと張る。
敬称を呼び変えられたことに、捲し立てていた男の勢いが止まった。
「…前にも申しましたが、月房屋(つきふさや)は吉原遊廓のような大層なお店ではありません。身請けなんて制度も此処にはございません」
「っだが…それならお前はどうやってこの店を…」
「私は、自分の足で此処へ来ました。此処を出ていく時も、自分の足で出ていきます」
揺るぎない意思を表すその言葉は、眼差しは、実弥にも見覚えがあった。
食べ物を粗末にするなと実弥の頬を叩いたあの時と、同じものだ。
やはりこの女は彩千代蛍だ。
となれば柚霧という名は源氏名か。
(遊郭つったなァ…つまりは男の慰み者か)
短いやり取りだが、二人の交わす言葉で理解できた。
長い尾鰭(おびれ)背鰭(せびれ)を揺らし艶やかに男を誘う蛍は、月房屋という狭い水槽のみで生きられる金魚だ。