第37章 遊郭へ
「それと何より、心に隙間がないと」
「なんだいそれ」
「食事を美味しいと感じられる隙間。綺麗にした部屋を心地良いと感じられる隙間。楽しめる隙間。笑える隙間。じゃないと表情も硬くなってしまって、折角の魅力が半減してしまう」
女将が取り上げた雑巾を、そっと柚霧の手が掬い取る。
「だから女将さんも、女将さんらしくどんと座って温かいお茶でも飲んでいて下さい。ハイどうぞ」
「へ?…はっ? あんたいつの間に…っ」
その手に代わりに差し出したのは、ほこりと温かい空気をあげる湯呑みだ。
中を覗けば、淹れ立ての玉露が艶々と水面を光らせている。
「この間、美味しそうなお茶を見つけたんです。女将さんにぜひ味わって欲しくて。舌の確かな女将さんが美味しいと思えるなら、私の部屋でも点てることにします」
柚霧はただ廊下に立っていただけだ。
つい先程までは掃除をしていた。
茶など淹れていない。
そんな疑問が浮かべど、湯呑みを持つ手を上から握られ、天女のような笑顔で微笑まれれば、女将の険しい表情筋も解れてしまう。
「柚霧あんた…本当に、時々人間じゃないみたいに見えっちまうよ…」
「ふふ。それなら私は、ぜひ小太郎になりたいですね」
「はぁ? 小太郎?」
「はい」
女将の愛猫である、茶トラ猫の小太郎。
目を点にする女将に、えへんと胸を張って柚霧は爽快に笑った。
「だって毎日食べて寝て、女将さんの愛情を貰えるんですよ? 食べて、寝て、それだけで可愛いと愛でて貰える。最高じゃないですかっ」
雑巾を握る手で拳を作り、つき上げる顔は絶世の美女だというのになんとも快活な笑顔だ。
「…は、あんたって本当、変な子だねぇ…」
折角の美貌も形無しだと思う反面、口は笑いを堪えず、肩は脱力した。
ふらりと一人、荻本屋の戸を叩いて現れた女──それが柚霧だった。
遠く離れた地からやって来たという女は、確かに浮世離れした美しさを持っていた。
身よりもなく、金も財産もない。そんな女が身売りに走るのは珍しくもない話だ。