第35章 消えがてに ふるぞ悲しき かきくらし
影の獣。
見た目は黒々と夜より深い闇なのに、触れた鼻先はほんのりと温かかった。
土佐錦魚の姿をした朔ノ夜は、どちらかと言えばひんやりと程良い冷たさを纏っていたように思う。
「……ぁ…」
獣のそれは、生き物の温かさとは違う。
言うなれば灯す炎に手を翳した時のような温かさ。
それこそ炎の呼吸を具現化したような熱の形に、蛍の唇が一呼吸、震えた。
「ぁ…っ」
一呼吸だったものが、息継ぎさえも途切れさせる。
義勇の前で見せた過呼吸のように乱れさせながら、蛍は足元をふらつかせた。
それでも倒れることなく、獣の鼻先に触れた手を握り締める。
「っ……ろ…」
この温もりは知っている。
幾度となく傍で見てきた呼吸だ。
この身に斬撃として受けたこともある。
それこそ、あの炎の虎の姿をした伍ノ型で。
「っ…きょ…ぅ」
ただ一人だけだった。
蛍にとって、炎柱と呼べる者は後にも先にも一人だけ。貴方だから望んだのだと、曇りのない本心を告げた相手だ。
「きょ…じゅ、ろ」
その名を口にするだけで、胸の内が裂けた痛みを覚える。
目の奥がぎゅっと委縮し、たちまちに世界はぼやけて見えなくなる。
呼吸は乱れ、嗚咽を漏らし、回らない頭は思考を削り、手足から急速に冷えていく。
それでもこの体が死ぬことはない。
何も食べずとも。何も飲まずとも。
生き続ける己の肉体そのものが、告げていた。
(ッ…私の所為だ)
この体が生み出したであろう、影の獣。
炎の呼吸と酷使しているその存在は、まるであの人の命の欠片を表しているようで。
(わたし、の)
あの時、心底この世を恨んだ。
目の前に広がっていた世界が音を立てて崩れ落ちていく最中に、口内に広がる血の味を噛み締めて。
願いも希望も未来も全てを奪い取る浮世を、心の底から憎んだ。
奪うだけの世界なら、神も仏も何もかも要らない。
たったひとつだけと望んだものさえ奪っていくのなら。
そうして呪ったのだ。
飲み込んだ血と共に。
「っ…杏寿郎…」
これは、煮え滾る憎悪で歪ませた──
呪いの形だ。