第34章 無題
「ぁ…あ…」
本来纏っている杏寿郎の匂いが上塗りされる程に、充満している血の臭い。
鼻の感覚が麻痺しそうな胸焼けする臭いに、炭治郎の思考が塗り潰される。
「そん、な…そんな…ッ!」
見開く両目から涙が溢れる。
善逸のように鼓動の有無を聴き取れる聴覚が無くとも、理解するには十分だった。
感じないのだ。
瀕死に陥っても尚、赤々と命の灯火を燃やしていた杏寿郎の生命力を。
すぐ触れられる傍にいるというのに、何も感じない。
「れんご…ッさ…ッ!」
震える声が悲痛に泣く。
縋るように手を伸ばす炭治郎の後ろで、ざり、と乾いた地を踏む音がした。
「──…蛍、ちゃん…」
息を呑むような、引き攣らせたような。
善逸が口にしたその名に、はっと炭治郎は振り返った。
項垂れ力の抜けた杏寿郎とは反対に、蛍は確かに両膝を地につけ立っていた。
力無く膝立ちの体制は今にも崩れ落ちてしまいそうに見えたが、倒れてはいない。
確かにそこに蛍の意思がある証拠だ。
杏寿郎と向かい合うようにして在る蛍の姿は、土埃で汚れていたが五体満足のままだ。
膝立ちでいるところ、折れていたはずの四肢も元に戻っているのだろう。
俯く顔は、座り込んだ杏寿郎よりも高い位置にある。
杏寿郎と同じように下から覗く炭治郎の目に映り込んだその表情は、憤怒も哀愁も載ってはいなかった。
「蛍…っ」
虚ろに漂う濁った瞳。
焦点は合わず、ただ何もない地面にだけ向いている。
薄く開いた唇には血のようなものがこびり付いているのに、数多に見てきたどの鬼とも違っていた。
虚無にも似た、無。
なんの感情も宿さない乾いた表情(かお)で、蛍はただ静かにその場にいた。
見慣れた臙脂色の袴姿に、足元には影鬼ともつかない影を置いて。
ただ一人、其処に。
「ほ…ほたる…?」
背中には温かい太陽光が降り注いでいる。
澄んだ朝の日差しの中に、確かにその鬼は存在していた。
身一つ、焦がすことなく。