第34章 無題
(虚空を拳で打つと攻撃がこちらまで来る。一瞬にも満たない速度)
数回の攻撃ですぐにその特性を見破った杏寿郎は、攻撃を防ぐことには成功した。
しかしそれは打開策ではない。
(このまま距離を取って戦われると頸を斬るのは厄介だ)
己を守り続けることはできても、結果が見えず持久戦となれば負けが見えているのは人間側だ。
鬼には尽きない体力がある。
戦闘により疲労することはあれど、目の前の驚異的な再生力を持っている猗窩座では、その疲労が溜まる隙もないだろう。
(ならば──)
空を飛ぶ能力を持たない猗窩座は、常に宙に浮いていられる訳ではない。
空式を幾度となく放った体はやがて重力に従い、宙で更に器用に反転すると地へと下り立つ形で着地する。
その瞬間を杏寿郎は見逃さなかった。
ざ、と片足を肩幅に広げる。
刹那、予備動作もなく地を蹴り跳んだ杏寿郎の体は、猗窩座のすぐ目と鼻の先まで迫っていた。
逃す隙を与えない。
勝負は常に一瞬だ。
「この素晴らしい速度…!」
まるで炎の噴射のように渦を巻いて迫る。杏寿郎のその姿に、頸を狙われながらも猗窩座は嬉しそうに声を上げた。
「この素晴らしい剣技も!」
今度は宙へと逃げることなく、猗窩座も詰められた距離を離さず迎え打った。
杏寿郎から繰り出される無数の斬撃。
それら全てを拳で受け、掌で叩き落し、肘で弾く。
一部も隙もない。
一瞬でも見謝れば、どちらかの急所が潰される。
そんな緊迫した空気すら、ぞくぞくと猗窩座の背筋を興奮で震え上がらせた。
「失われていくのだ杏寿郎! 悲しくはないのか!!」
だからこそ憤りが生まれる。
こんなにも素晴らしい腕前を持っているというのに。
目の前の男は〝鬼〟という魅力的な餌を差し出されても一切食い付こうとしないのだ。
どんなに素質ある肉体を持っていても、人間であればいずれ老い、朽ち果てる。
人間の一生も、鬼である猗窩座からすれば瞬くような一瞬だ。
そんな一瞬で、地道に、必死に鍛え上げた能力も、虚しく散ってしまう。