第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「杏寿郎」
「ん?」
「んーん。呼んでみただけ」
ただ名を紡ぐ。
それだけで幸せだと笑う。
なんでもないと頸を振る蛍の微笑みに誘われて、銀の櫛を飾る髪に杏寿郎は口付けた。
濡れた肌を寄り添わせ、見上げるは数多の命を灯した輝き。
そこに薄らと靄がかかるような白みが混じる。
「…そろそろ上がらなきゃね…」
夜明けの気配を感じて、告げる蛍の声が僅かに儚さを持つ。
濡れた熱い手で優しく頭を引き寄せて、杏寿郎は己の頬と寄り添わせた。
「覚えておいてくれ、蛍。見えていなくとも、それは常にそこにある。ただ陽光が眩し過ぎるだけで」
「あの星たち?」
「ああ」
「鬼太郎くんが言っていた、あの台詞みたい」
「見えている世界が全てではない、か」
「うん。…私のこの目だから、見えたものも沢山あると思う。でも、杏寿郎のお陰で欲張りになれたし。いつか見たいと思うよ」
甘えるように身を預け、空を見上げる蛍の手が伸びる。
白む世界を掴むように。
「色んなものが見えなくなるくらい、眩しい世界」
鬼だからこそ得られたものを抱きしめて、人だからこそ得られるものに手を伸ばしていよう。
望む未来を掴む為なら、いくらだって欲張りになれるから。
「一緒に見てみたいなぁ。いつか、お爺ちゃんとお婆ちゃんになっても」
「いつかじゃない。きっとだ」
その手を下から掬うように、杏寿郎の指が絡み握りしめる。
目を瞑りたくなる眩い世界でも、この手の温もりを見失うことはないのだろう。
そうして初めて、二人で同じものを通して見るのだ。
「きっと」
世界が生まれる、瞬間を。