第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「何故嫌なんだ? 気持ちよかっただろう? 男の時はあんなに求めてくれたじゃないか」
「あれは…あっちでしか、杏寿郎と繋がれなかったから…」
「ならば俺だってそうだ。今ここでしか見られない蛍の顔がある」
後孔を責め立てていた手とは別の指先が、蛍の頬を音もなく撫でる。
「俺だけの蛍。俺だけの愛しい君だ」
自分にだけ見ることが許される表情(かお)。姿ならば、何度だって記憶に残したくなる。
見ていたい。触れていたい。愛していたいのだ。
「そんな君に触れるなという方が無理な話だ。願わくば今宵はずっと見ていたい」
「…っ」
「狡いか? 俺は」
羞恥に赤らむ頬を愛おしげに指の腹で撫でて、その口が漏らす前に蛍の感情を汲み取る。
「ならば諦めてくれ。蛍を俺のものにできるなら、浅ましいことも考える。いくらだって狡い思考を持つ。それが君の好いた男だ」
言葉とは裏腹に、甘い響きを持つ声が蛍の体に染み渡る。
声にならない声を吐息に変えて、蛍は唇を結んだ。
そんなこととっくに知っている。
この身体の奥底に感覚として染み込んでいるのだから。
それでも恥じらい目を逸らしてしまうのは、何も全て素直になり切れていない己の性格にあるのではない。
その度に教え込まれるように、杏寿郎に左右もわからなくなる程に溺れさせられる。
その快楽の渦に飲み込まれることを、望んでいる自分もいるからだ。
「っ…」
己は狡い男だと言うが、自分こそがはしたない女なのではないか。
じわじわと熱が顔に集中するのを止められずに、蛍は無言でぽすんと乱れたアネモネに顔を埋めた。
「…蛍」
視界が暗闇に染まる中で、すぐ耳元で囁く声はよく通った。
「何も蛍も全てが嫌な訳ではないだろう?」
優しく真綿で包むように促しながら、その声は全てを見透かしてくる。
杏寿郎の指摘に、尚もかっと顔に熱が増した。