第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
触れ合って、顔が見える距離まで離れて、ふ。と一息つく。
改めて見つめた先に、杏寿郎は一層目尻を和らげた。
「そういう表情(かお)も、俺だけの特別だ」
眉を八の字に変えて、瞳の膜を潤めて。
泣きそうな顔で笑う、蛍の顔に。
「…杏寿郎、は…本当に、ずるいよね…」
「ははっそうだな。蛍のそんな姿が見られるなら、いくらでも狡い人間になろう」
何度も聴いてきた、恥じらいの中で生まれる蛍の形だけ素っ気ない言葉。
狡いと告げながら、あたたかく届く声はまるで愛を囁かれているようだ。
何度も聴いてきた、一等彼女のいじらしい姿勢の一つ。
「──私も」
いつもならそこで恥じらいのままに抱き付いてくる体は、微動だにせず。
代わりに伸びた両手が、そっと杏寿郎の頬を包む。
「私しか知らない杏寿郎の顔が、増える度に…愛おしくなるの。私と杏寿郎との思い出がひとつひとつ、生まれる度に」
鋭い爪を持つ鬼の手。
その指の腹は優しく、愛おしく頬を擦り撫でる。
「今もそう。…私、この日のことを忘れない」
枯渇することなどない。
永遠に生を刻み続けられるこの身体が、心が、物語っていた。
「大好きだよ。杏寿郎。大好き」
泣きそうな声で切に願う。
最愛の家族を亡くし、人間であった己の存在も失くし、後悔などという言葉など追い付かない程、擦り傷だらけの道を歩んできたというのに。
そんな浮世の中でしか見つけられなかったものが、目の前にある。
こんな道でしか辿り着けなかった想いが、ここにある。
「愛してる」
吐息を繋げるように愛を謳う。
包んだ頬を引き寄せて、紡ぎ合わせるように唇を寄せた。
「…俺も、愛してる」
ふ、と声が柔らかな音色で微笑む。
引き寄せられるままに身を寄せて、伝えるままに抱きしめて。
幾度も愛を囁きながら、応えるように杏寿郎もまた唇を寄せた。