第28章 あたら夜《壱》
くん、と袖を引かれた。
見れば、指先で隊服の袖を握った鬼の手が。
くん、くん、と。三度引かれる。
「…蛍」
袖を三回連続で引く。
それはついこの間、蛍と決めたサインの一つだ。
初めて意思表示されたその行為に、思わずまじまじと顔を見てしまう。
更に恥じらいの色を見せた蛍は、押し付けるように杏寿郎の胸に顔を埋めた。
「…そんなに見ないで」
くぐもった消え入りそうな声に、どくりと鼓動が脈打つ。
『ならば合図を決めようか』
『合図?』
『うむ。直接口にするのは蛍が躊躇うだろう? ならば合図にすれば、催促し易いのではないか』
『…それなら』
陽の差し込む蕎麦屋の二階。
すっかり太陽の上がった部屋から避難するように、蛍を布団で包んだまま廊下で抱いていた時に決めたのだ。
袖を三回引く。
それは杏寿郎から精を貰いたいというサイン。
飢餓が出る度に血液を与えるよりも、日頃から与えられる時に己の精を渡す方が理に適っていると杏寿郎は結論付けた。
その提案には蛍も賛同した。
杏寿郎に血を流させるよりも、精を貰った方が体の負担は少ないのではと考えたからだ。
あれこれと理由はそれなりに見出したのだが、結局は蛍に触れていたいのだ。
自分色に染めていたい。
それに尽きる。
「蛍」
すまないと謝れば、更に蛍は後ろめたく感じるだろう。
そんな思いをさせない為に決めたサインだ。
すぐに脳内を切り替えると、杏寿郎は柔く蛍の両肩を握った。
ゆっくりと導くように体を離して、俯く蛍を見つめる。
「顔を上げてくれ。君の顔が見たい」
「……」
恐る恐ると顔を上げる蛍の頬は、ほんのりと赤い。
そんな顔をさせない為にと決めたものなのに、そんな顔をもっと見てみたいと思ってしまう。
嗚呼、と心が充足感で満ち満ちる。
先程まで与助に芽生えていた殺意など、全て塵となり消えてしまった。
蛍しか見えない。