第27章 わが情(こころ) 焼くもわれなり 愛(は)しきやし✓
「…与助に手を上げられた時は、柚霧だった頃を思い出して、上手く動けなかった。考える前に、体が強張ってしまって。何も考えられなかった」
声量を落として出てきた"与助"の名に、杏寿郎の意識が急速に現実に引き戻される。
「でも杏寿郎を前にすると、そんな気配は一つも出てこないの。怒鳴られた時は、まぁ、吃驚したけど。無理矢理、抱かれた時も…でも怖いとは思わなかった。それだけ杏寿郎にも感情を揺さぶる思いがあったんだって、そっちの方が私には大切で。…だから、何も問題はないよ。怖くない」
出会い当初から、人間は怖いと蛍は告げていた。
それでも杏寿郎は怖くはないと、初めてこの腕に抱いた日に教えてくれたのだ。
その華奢な体の柔らかさと共に。
「それは、私と杏寿郎だから。私達だから、できることじゃないのかな」
目覚めで掠れていた声に、もう拙さはない。
「まだぶつけたいものがあるなら、何度だってぶつけてきていいよ」
「……本当にいいのか?」
「ん」
重い沈黙を破り、杏寿郎が今一度問う。
返す声には躊躇する隙もない。
こくんと頷く蛍に、再び唇を結んだ杏寿郎は片手を上げた。
拳と拳で向き合ったことは、過去杏寿郎にも経験はあった。
柱相手は勿論のこと、一方的に受ける側だが槇寿郎からも向けられていたものだ。
例え力を示す行為であっても、それにより交えられる意思はある。
だから柱同士の稽古の延長線上で殴り合いに発展することもあったし、いくら千寿郎に止められようとも嬉々として父の拳を体で受け止め続けた。
だからこそ蛍の意見も、一理あるものだと呑み込める。
長年鍛錬に費やし、鍛え抜かれた腕の先。
片手の掌だけで簡単に蛍の顔半分を隠せてしまえる程、大きなものだ。
その手が無防備な蛍の頬に向けて、風を切る。
肌にくるであろう衝撃を覚悟して、蛍は静かに目を瞑った。
ぺちり
風を切る音よりも拍子抜けする、儚い平手打ち。
撫でるには強く、叩くには弱い仕草で、柔らかな蛍の頬に掌が押し当てられた。
予想外の優しい平手打ちに、蛍の瞳が丸くなる。