第26章 鬼を狩るもの✓
「…杏寿郎…?」
匂いがした。
毎朝その匂いに包まれて目を覚ましていた。
温かくて、懐かしくて、安心する。
陽だまりのような匂いだ。
「っ…杏寿郎ッ」
自然と声が膨らむ。彼が近くにいるのか。
人の気配はない。
それでも暗い廊下に向かって蛍は呼びかけた。
「いるのっ? そこに」
「んん…ッ…ほたる…?」
身動ぐ蛍に、膝を枕にしていたテンジが目を覚ます。
重い瞼を擦りながら身を起こす少年を、蛍は見ていなかった。
「杏寿郎──」
腰を上げ、手を伸ばし、先へと踏み出す。
蛍のその姿に、眠たげに見上げていた幼い目が見開く。
「っだめ…!」
「ッ?」
ぎゅ、と強く腕を引かれた。
振り返る蛍の視界に、ようやくテンジの姿が入り込む。
「ほたる、いく、だめっ」
「テンジ……私ね、帰りたい場所があるの」
「だめっ」
「聞いて、テンジ。私が帰りたい場所は、おうちじゃないの。そのおうちを温かく変えてくれる人達のところ」
「だめ…ッ」
何度もいやいやと頸を横に振り、話を聞こうとしない。
テンジのその主張に、蛍は困ったように眉尻を下げた。
帰りたい場所は一つだけだ。その思いは揺らがない。
しかしどう言葉にすれば、それが目の前の少年に伝わるのか。
「テンジにも、そういう相手はいない? 一緒にいたい。傍にいて欲しい。触れているだけで心が満たされる、そんなひと」
「っ…」
「私にとって杏寿郎がそのひとなの」
「きょ…じ…?」
「煉獄杏寿郎。…その人の為なら、いくらだって強くなれる。しんどいものだって全部呑み込める。その人がただ、私に笑いかけてくれるなら」
縋るように腕を掴むテンジの手に、そっと掌を重ねて。蛍はこの世の幸福を噛み締めるように笑った。
「それだけで、世界でいちばん幸せなんだって思えるから」
幼い両目が大きく見開く。
縦に割れた瞳孔が、限界までキリキリと引き延ばされる。
「ほ──…」
それでも尚、呼ぼうとした。
少年のその体に、ぴしりと走ったのは斬撃のような亀裂。