第24章 びゐどろの獣✔
「なら一つ、我儘を言っていいか」
「私ができる範囲でなら…」
「蛍にしかできないことだ」
「何?」
自然と背筋が伸びる。
流石に太陽光に身を晒せなどと自滅行為を強制されたら断る気でいるが、杏寿郎がそんなことを言うはずもない。
となれば一体何か。
杏寿郎の手が離すまいと蛍の袖を握る。
どきりと鼓動が一つ跳ねた。
「せ、千くんが起きるようなことは」
「歌って欲しいんだ」
「……はい?」
まごまごと言い訳のようなものを伝えようとすれば、求められたのは蛍の予想斜め上をいくものだった。
「うた…?」
「歌だ」
「うたって、あの、歌?」
「そうだ歌って欲しい」
「…私は…槇寿郎さんとの関係を取り戻せたらって、そういう意味で…」
「勿論、それもとても嬉しかった。だが今一番俺が望むことはそれなんだ。あの歌が聴きたい」
今度はぽかんと蛍が見つめる番だった。
しかしいくら穴が空きそうな程見つめても、返されるのはきらきらと輝くような瞳だけ。
「あの日、一度だけ聴かせてくれただろう。金糸雀という童謡が、自分にとっての子守歌だったと」
「あの日」と曖昧に告げられたが、すんなりと蛍も思い出せた。
花街が眠りにつく静けさの中で。初めて清々しいと思える朝を迎えられた、あの日のことだ。
「あの時は微睡みの中で聞いていたから、はっきりとは憶えていないんだ。だからもう一度聴かせて欲しい」
「……そん…」
「そん?」
「…ううん。なんでもない」
まさかそんなことを、たった一つの我儘に使おうとは。
思わず突っ込みそうになった言葉を呑み込んで、蛍は頸を横に振った。
「…いいよ。人前で改まって歌うのは、ちょっと恥ずかしいけど…杏寿郎の頼みだから」
「本当かっ」
途端にぱっと顔が輝く。
褒美を貰った子のような幼さの残る笑顔に、直視できずに蛍は顔を逸らした。
「蛍?」
「ううんなんでも(駄目だ可愛い)」
本当に体の大きな子供を前にしているかのようだ。
そんな純粋な思いを向けられて、誰が無碍になどできようか。