第21章 箱庭金魚✔
記憶にあるものは、全て朧気なものだ。
名を呼ぶ優しい声も。
抱いてくれた腕の温かさも。
注いでくれた愛の形ひとつさえ、まともに憶えてはいない。
『母上は、聡明で強く優しい御人だった』
全ては兄である杏寿郎から聞いたものでしか想像を広げられなかった。
容姿は兄と父にとても似ている自分のこと。
こんなにも美しい人が母だったとは、と残された数少ない写真を見ても、すぐには実感が湧かない程だった。
それでも兄から話を聞けば聞く程、とても素晴らしい人だったのだろうと憧れた。
そんな母が恋しいと感じるようになった。
思い馳せるように空(くう)を見て話す兄の顔はとても慈愛に満ちていて、母もこんな顔をしていたのだろうかと共に思いを馳せた。
ほんのもう少し、自分が早く生まれていれば。
ほんのもう少し、母が長生きできていれば。
幼い自分の記憶にも、語れる程の"思い出"として残すことができたかもしれないのに。
もうこの世にいない存在から、どんなに求めようとも愛情は得られない。
それでも父をここまで奈落に突き落とし、兄にここまで慈愛に満ちた笑顔を浮かばせる母のことが大好きだった。
その愛を自分も知りたいと思った。
恋しい。寂しい。
哀しい。苦しい。
体の成長と共に育つ心は、よりそれを求めて手を伸ばす。
恋しい恋しいと求めていた心に、巣食ったのは煤(すす)のような思いばかりだった。
──母上
ぼくは刃を振るうことができません
鬼の頸を斬ることができません
父上の息子として、兄上の弟として
母上の子として、生まれたのに
ごめんなさい、母上
不甲斐ない息子で、ごめんなさい
そんなぼくでも、貴女は見てくれるでしょうか
こんな息子でも、我が子だと認めてくれるでしょうか
母上
ははうえ
伸ばした手は何度も空を切る。
何度も掴もうとしてはすり抜けていく。
涙で滲んだ視界に、母の後ろ姿はぼやけてよく見えない。
──嗚呼、違う
涙でぼやけているのではない。
自分の中にある母の姿が、朧気なのだ。
鮮明に思い出すことさえできない自分の方が、母への愛が掠れているのではないか。