第20章 きみにより 思ひならひぬ 世の中の
顔は見えない。
しかしほんのりと赤く色付く耳や首筋が、蛍の感情を物語っているようだ。
「…ああ、」
細い体に優しく腕を回すと、杏寿郎も顔を高揚させたまま微笑んだ。
「もっと言ってくれないか」
快楽の余韻で甘え全開に告げてくれた愛の言葉も胸を打ったが、普段の蛍から恥じらいながらも告げられる言葉はまた別格だった。
もっと欲しいと、蛍に対しては尽きない欲が素直に出てくる。
「……」
「蛍?」
「…月が、綺麗ですね…」
しかし更にくぐもった声で告げられたのは、夏目漱石の台詞だった。
羞恥故の反応なのだろう、愛らしくは思うが今欲しいものはそれではない。
「自分の言葉で、と言ったのは蛍だろう? 俺も蛍自身の言葉が欲しい」
「(ぅ…)…じゃあ…星空が綺麗ですね、とか?」
「ほう(成程そうきたか)」
どうにも捻った方向に会話を向ける蛍に、ならばと杏寿郎の顔ににっこりと綺麗な笑顔が浮く。
「では共に考えてみるとしよう」
「え?」
「文豪に負けないくらいの愛の言葉を」
「え。」
埋めていた顔を思わずがばりと上げる。
蛍のその目を間近に見返して、有無言わさない笑顔を杏寿郎は向けた。
「杏寿郎って意外に、浪漫(ろまん)主義…?」
「そういうものを気にかけたことはないが」
(…うん、杏寿郎っぽい)
「だが、心を打つ人々の歴史や文学は好きだぞ。その"浪漫"という言葉も、意訳で生み出したのは夏目漱石だ。蛍も知っているじゃないか」
「そう、なの…? 名前だけ有名で知ってただけだけど……杏寿郎が博識なのは知ってたけど、そういうことに興味があったのは初耳」
「俺は鬼を斬ることしか知らないからな。世の中にはもっと数奇で類稀なる経験をしている者は多くいる。その者達の人生を学ぶと、俺の知らなかった世界が見えてくる。俺が歩めなかった道筋を辿って、見ることのなかった景色を眺めて、知らなかった感情を持つことができる。それが好きなんだ」
子供のように煌めく瞳で告げる杏寿郎の表情は生き生きとしていて、蛍はつい目を細めた。