第18章 蛹のはばたき✔
「ほな、また。…蛍の、ねーちゃん」
「!」
逸らした目線は重ならない。
それでも確かに清が呼んだのは、個人の名だった。
蛍の目が更に驚きで丸くなる。
何かと鬼呼びしかしなかった少年が、初めて口にしたのだ。
「炎柱様と来はるんやったら、また、観光案内してもええよ」
たった数日。
少年と関わった時間は短いものだったが、それでも彼の心に何か刻むことはできたのだろうか。
見えない答えを前にして、蛍もほんの少し口角を緩ませる。
「うん。その時は、またお世話になるね。…清くんの」
見えはしないが、確かにそこにある思いを感じて。
初めて紡いだその名の響きに、自分もまた彼を少年の括りでしか呼んでいなかったのだと気付いた。
「ありがとう」
一歩。
先に踏み出してくれたのは、幼さの残る少年の足だったのだと。
「さって。オレも報告書まとめたら、出発するかな」
早朝の人通りの少ない道を、並んで歩く二つの背中。
それを見送りながら、ぐぐ、と片腕を上げて背を伸ばす後藤に、同じく見送っていた藤屋敷の者達も玄関先から離れていく。
「なんや清。知らんうちにあの鬼様と話せるようになっとったんやなぁ」
その場で立ち尽くしたまま、じっと小さくなった背中を見送る清の肩に、ぽんと父の手が乗る。
燃え盛る炎のような羽織と、頭から爪先まで竹笠と袴で隠した後ろ姿。
似ても似つかない二つの凹凸の背は、それでも清には隣同士でいることが馴染んで見えた。
「…ねーちゃんは、ねーちゃんや」
幼さを残す黒い団栗眼が、父を見上げる。
抗うような口調は、普段の彼となんら変わらず。
「オレは鬼様なんて、けったいな名で呼ばへん」
ただその目は、見るべきものを見つめていた。