第32章 キューピッドは語る Side:H <豊臣秀吉>
主君の前で、いつまでも醜態をさらしてるわけにはいかねえ。気付かない内に顔に動揺が表れる程に、さっきの出来事が俺にとって衝撃的だったとしても、だ。
「それでは、失礼いたします」
無言で頷く信長様に深々と低頭して、俺は部屋を辞去した。ほとんど強制的に気持ちを切り替えたとはいえ、仕事の事で話をしているうちに、俺の心はすっかり持ち直していた。
勝手に立ち聞きして、勝手に関係を悟って、勝手に落ち込んでどうする。
思わず自分の馬鹿さ加減に苦笑を漏らしながら御殿の門扉をくぐる。
「おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま。…三成のやつに食事を持って行くから、用意を頼めるか」
「かしこまりました」
出迎えてくれた女中にそう頼んで、俺は部屋へ引っ込んだ。空いた時間に少しでも仕事を終わらせておきたい。
机上にはやりかけの仕事がそのまま広がっていて、その片隅にはウリが小さな体を丸めて寝息を立てている。
俺が腰を下ろした気配に、ウリが目を覚ました。どんぐり眼が俺を見上げてくる。
「悪い、起こしちまったな」
人差し指でウリの頭を撫でてやっていると、微かな話し声が耳に入って来た。誰か来たのか?
用があるとすればまず俺だろう。女中に呼ばれる前に顔を出そう。
襖を開け放てば、玄関からの声は一層大きくなって聞こえてくる。女の声みたいだ…いや、ちょっと待てよ。
「どうした、来客か?」
玄関まではまだ距離があるというのに、急いた気持ちが俺に声を上げさせた。足早に廊下を進み、ひょいと顔を覗かせれば。
…間違いねえ。
「わぁっ」
俺の目の前まで勢いよく進み出て来たさとみの顔が、早く見たくてたまらない。
「さとみか?」
「こ、こんばんは…」
おずおずと顔を上げたさとみが、どこかぎこちなく俺に笑顔を向けてくれた。それだけで、俺の今日一日の疲れが吹き飛んでく。
俺に用があって会いに来てくれたのかと思うと、意識なんてしなくても、顔が勝手に綻んでいくんだから、参るな。
「どうしたんだ、こんな時間に。一人で来たのか?」
「え・・・う、うん!そう!」