第32章 キューピッドは語る Side:H <豊臣秀吉>
三成をとりあえずそのままに、俺は書庫を出た。俺が歩いているのは、普段から日の当たらない廊下だ。夕暮れ時の今は、灯りが欲しいほど暗い。
「待って、家康!」
唐突に背後から響いた女の声に驚いて、体が跳ねた。声の主を探して後ろを見れば、俺の少し後ろを歩いていたのだろう、家康が同じように振り返っている。
丁度家康と重なって顔は見えないが…あの声は間違いなくさとみだな。俺があいつの声を聞き間違えるはずない。
「家康、これ…」
「ちょっと待って、さとみ」
立ち聞きなんて、無作法にも程がある。それは分かってるが、二人の会話の内容が気になってしまって仕方がない。
「どうして?文読んでくれるって、約束したでしょ?」
「分かってる、でも」
…文?
いつの間にあいつら、文をやり取りするような仲になったんだ。…まさか。
「返事、待ってるから」
どこかはしゃいだその口調。無理矢理押し付けるような、紙がくしゃりと鳴る音と、走り去る軽い足音。
一人廊下に佇む家康に気付かれる前に、俺はその場を離れた。
いや。違うな。
…逃げたんだ。
家康に、二人の関係を肯定されるのが、怖かった。
単なる文のやり取り、ってだけなら…俺の早計かもな。だけど、さとみのあの嬉しそうな声が何よりの証拠だろ。頭の中で、あいつの「待ってるから」って言葉が繰り返し聞こえてる。
それにさとみは…俺に、あんな話し方をしてはくれない。家康に対しては逆に、心から信頼しているのが分かる、気を許した話し方だった。
「御館様、秀吉です」
「入れ」
うだうだと考えていたら、いつの間にか信長様の部屋の前までたどり着いていた。気を取り直して、再度仕事に集中しよう。
深呼吸して襖を開けると、書簡に目を通していたらしい信長様が顔を上げた。どこか訝し気に眉をひそめて、腰を下ろした俺の顔をじっと見ていらっしゃる。
「…何か起きたか」
「いえ、信長様のお耳にお入れすべきことは、特にございませんが…?」
「貴様、鏡を見てその顔を何とかしろ。その顔では、三成が死んだと言われても驚かんわ」
「はッ、申し訳ありません」
俺…そんなにひどい顔、してるのか?