第30章 キューピッドは語る Side:I <豊臣秀吉>
陽が落ちるの、早くなって来たな。俺の手から果実を食べるワサビの毛並みを撫でながら、あっという間に姿を消していく太陽を見やる。
「…だめ、今日の分はおしまい」
せがむように俺の手に鼻を擦りつけてくるワサビに告げて、代わりにそこを撫でてやった。気持ちよさそうに目を細める姿を見てると、一日の疲れが少しだけマシになってくる。
昼間の暑さは既に和らぎ、気の早い虫が遠くで鈴の音を響かせている。ワサビに背を向けて懐から文を取り出したら、目ざとくそばへ寄ってきた。
「こんなもの食べたら、腹壊すよ」
いっそこのまま食わせてしまいたい気持ちを殺して、俺は縁側に腰かける。わざわざ自室の机で読む必要もないだろ。音を立てて広げれば、女性特有の柔らかな文字の羅列が目に入ってきた。
「秀吉さんへ…」
今更だけど、何で俺がこれを読んでるんだろう。他人宛の恋文を読んで、挙句の果てに添削なんて。
「この間食事に誘ってくれたのに、断ってしまってごめんなさい。良ければ今度、一緒にご飯を食べたいです。都合の良い日があれば教えてください。さとみより…」
ふうん…プルプルしてた割には、まあまあなんじゃないの。強いて言えば他人行儀だし、簡潔すぎる気がしないでもないけど…こういう文は、俺も書いたことないしな。
ああ、でもこれ、俺が渡した紙じゃない。何度書き直したんだろ、あの子。
…というか、女の恋文の添削を俺が完璧にこなしたら、それはそれで問題があると思うんだけど。こういう事相談するなら、適任は他にいるでしょ…。
「家康様」
「…何?」
「さとみ様がお見えです」
文をたたむ俺のところへやって来た、女中の言葉に力が抜ける。どんだけ気が急いてるんだよ。まあ、持って行く手間が省けてちょうどよかったと思うことにしよう。