第30章 キューピッドは語る Side:I <豊臣秀吉>
外出を終えて、俺は夕刻に城を訪れていた。信長様に呼ばれて、軍議の内容について指示を受けた後で、自分の御殿に戻るために廊下を進んでいく。
今日の仕事はこれでひと段落。大きな軍議までは数日バタバタするだろうけど、休める時には休んでおこう。
角を曲がると、少し先に見知った背中が見えた。秀吉さんだ。追いつくのも面倒な距離だし…いいか。用事も特にない。
「待って、家康!」
「っ!」
追いかけてくる声に驚いて立ち止まれば、少し先の秀吉さんも振り向いてこちらを見ているのが、視界の端に映った。
「家康、これ…」
「ちょっと待って、さとみ」
さとみの手にある文に状況を悟り、俺は思わず声を上げた。秀吉さんが傍にいるのに、ここでその話はまずい。
「どうして?文読んでくれるって、約束したでしょ?」
「分かってる、でも」
「返事、待ってるから」
添削よろしく、って顔で、さとみがぐいぐいと俺に文を押し付けてくるから、受け取らざるを得ない。いつも思うけど、この子は俺に対しては何の遠慮もないな。
不幸にもさとみの位置からは、俺が壁になって秀吉さんが見えなかったんだろう。嫌な汗が滲む俺を残し、さとみはそのまま踵を返して戻って行ってしまった。
無理矢理押し付けられた文を懐にしまい、恐る恐る振り向けば、なんということはない。秀吉さんは既にいなくなっていて、薄暗い廊下に佇むのは俺一人。
「はー…」
よかった。余計なことは聞かれていないみたいだな。
でも、考えてみれば秀吉さんもさとみの事が好きなんだから、聞かれても良かったのかもしれない。むしろその方が、手っ取り早く話が進んだんじゃないか。
…仕方ない、御殿に戻って読もう。余計な仕事が一つ増えたな。何で俺、こんなことしてるんだろう。
空しさを胸に御殿へ戻りながら、俺は大事な事に頭が回っていなかった。大声で言い争う俺達を無視して、秀吉さんが黙ってその場を後にした、その意味に。