第29章 夜が明けたら <明智光秀>
「ふう…」
思わず大きくため息をつきながらも、桜は相変わらずの光秀に苦笑をこぼした。いつもああやっては桜をいじめて遊ぶから、正直疲れてしまうこともあるけれど。ほとんど会えていなかった寂しさから、今はその意地悪ですら桜の心を温める。
「お湯は一緒なんだ…」
入浴の準備を済ませて手ぬぐいを手に脱衣所を出れば、少し懐かしい景色が目に飛び込んでくる。風呂は大きく広げられ、中心から二つに仕切られている。
「さむ…」
しばし景色に見とれていた桜は、冷たい風に身震いした。晩秋深まる山の上。ぼうっとしていては、紅葉に見とれる前に風邪を引いてしまう。
手早く体を洗い、熱めの湯が張られた浴槽に身を沈める。
「…温かい」
「桜」
「光秀さん?」
仕切りの向こうから聞こえる、光秀の声。思わず湯に浸かる姿を想像してしまって、桜は一人頬を染める。
「何を考えているのか当ててやろうか」
「っ結構です」
光秀のことだ、確実に当ててくる。桜は出来るだけ平静を装って言い返し、湯船の中をざぶんと水音を立てながら奥へ移動していく。
「光秀さん、景色がいいですよ」
風呂の端まで来て、思わず声を上げた。岩に身体を預けて眼下を見下ろせば、川を挟んだ対岸の山は暖色に染まり、紺青の空と相まってなんとも美しい。
湯船に波が起こって、光秀が同じように奥まで移動してきた事が分かった。
「ほう。この間来た時とは、趣が違うようだな」
「紅葉が綺麗ですね」
「そうだな」
姿は見えないけれど、確かに感じる光秀の気配。二人で共に同じ景色を見ている事が嬉しくて、桜の心は地に足が着いていないようにふわふわしている。
「桜、のぼせて溺れていないだろうな?」
「そんなこと…大丈夫です」
しばらく黙ってしまっていた桜に、光秀のからかうような言葉が降ってくる。けれど、その声色にはどこか案じるような優しさが滲んでいて。
「そろそろ、あがりますね」
「ああ、俺もそうしよう」
二つの水音が再び響いた後には、ゆらゆらと揺れる水面が光っていた。