第28章 それゆけ、謙信様!*遁走編*
「これだけは言っておくぞ、謙信」
「……」
信長の地を這うような低い声に、自身も馬に乗ろうとしていた謙信が無言で振り向いた。二人の視線が交錯する。
「そやつを粗末に扱ってみろ。越後など、貴様もろとも灰にしてくれる」
「言っていろ。根拠もなく攻め込んでこいつを取り返しに来た所で、返り討ちにしてやる」
謙信はばっと羽織を翻し、桜の後ろにまたがった。
「行くぞ、振り落とされるなよ」
「は、はい。信長様、ありがとうございました…!」
謙信が容赦なく腹を蹴り、嘶いた馬が速度を上げて走り出した。謙信の腕の中で何とか振り向いた桜と信長の目が合うけれど、その不遜な笑みはあっという間に小さくなる。
桜の礼は、信長の耳に届いただろうか。
桜は、手綱を取る謙信の腕につかまって、安土の風景を目に焼きつけていく。一つも取りこぼさないように。
安土城も、町並みも、匂いも、風も。
きっとすぐに懐かしくなってしまう全ての思い出を、その胸の中にぎゅっとおさめると、一筋の熱いものが頬を伝った。
ありがとう。
「あーあ…ほんとに行っちまった」
「行かせたくなかったとか、言うんじゃねえだろうな」
「言いてえところだけどな。あいつが…笑ってられる場所で生きててくれりゃ、それでいい」
「同感だな」
走り去った馬を見送り、秀吉と政宗が笑いあう。そこへ信長以外の三人も合流してきた。
「やれやれ、最後まで世話の焼ける娘だったな…秀吉、泣くんじゃないぞ」
「泣いてねえ。お前はこんな時までそんな事しか言えねえのか」
「生憎これが性分でな」
ニヤニヤする光秀に、秀吉がしかめっ面で突っかかる。騒がしくなったその場に、丘から悠然と信長が下りてきたことで、秀吉が慌てて口をつぐんだ。
「無事に行きましたか?あの子」
「ああ。謙信め、よほど俺と話をさせたくなかったようだ」
家康の問いに簡潔に頷いて、信長は去り際の様子を思い出してにやりと笑った。それからぐるりと辺りを見回す。
「春日山の他の連中はどうした」
「いつの間にかいなくなってました、おそらくもう安土にはいないでしょう」
政宗がそういって肩をすくめる。それを受けて三成が口を開いた。