第28章 それゆけ、謙信様!*遁走編*
言葉なく、ただ桜を見つめる謙信。その胸の内を考えないようにして、桜は努めて明るく言葉を紡いだ。
真剣なこの想いを、真剣なまま伝えても、後で辛いのは自分だ。謙信に突き放された記憶が蘇って来るけれど、それでも無理矢理に笑顔を浮かべて。
「聞いて頂いて、ありがとうございました。これで、悔いはありません」
「……」
どうか、何も言わないで。
目を床に落とし、じっと黙ったままの謙信を、桜は祈るように見つめた。
答えなど、分かっているから。これ以上傷つきたくない。
「届かぬかもしれん想いを告げて、何になる。苦しむのならいっそ、気づかぬ振りをしていた方が利口だろう」
ぽつり、と謙信の口から言葉がこぼれた。帰ろうとして立ち上がった桜は、静かに微笑む。
「そんなことはありません。少なくとも私には、謙信様にお会い出来た事にも、この想いにも、後悔はありません。この先後悔するとするなら、あの時伝えておけばよかったと、そう思う事だけだと思います」
一気に言い切って、桜はふうと息をついた。幸村が自分へ伝えてくれた時の気持ちが、今なら痛い程分かる。
頭、痛くなってきた…。
どうやら、薬が切れて熱がぶり返したようだ。頭がぼんやりとし始めて、立っているのが辛くなってくる。
「…おい、どうした」
「いえ、私…帰ります。お邪魔しました」
様子がおかしい事に気付いたのか、謙信が眉根を寄せて聞いてくるけれど、これ以上迷惑も同情もかけたくなくて、桜は精一杯笑って一礼した。
平静を装って踵を返そうとした体はしかし、すでに言うことを利かない。
「あっ…」
「桜っ」
均衡を失った体が囲炉裏の方へと傾いだけれど、熱い炎に包まれることはない。たくましい腕が、桜の体をしっかりと抱き留めてくれていたから。
あの雨の日のように。
「すみません…ッ」
衝動的に謝罪の言葉を口にはしたけれど、桜は自分の頬が緩むのを抑えられない。
ああ、やっぱり好き。
今だけは、この腕の温もりに甘えてしまおう。