第28章 それゆけ、謙信様!*遁走編*
ふふ、と笑い声がして、謙信は我に返った。腕の中の桜を見下ろせば、荒い呼吸をしながらも嬉しそうに笑っている。
「何がおかしい」
「やっぱり謙信様は、お優しいな…って」
「……っ」
謙信を見上げてくる桜の笑顔が、いつか見たものと重なった。それは、堅く堅く封をしたはずの謙信の心の奥まで、容易く入り込んでくる。
「俺の事を愛して…どうする。戦に行き、いつ死ぬとも分からんこの身を想った所で、お前は幸せにはなれん」
「そんな事、分かりませんよ」
謙信が板間に下ろしたその体を起こしながら、桜は自信たっぷりに言った。額には既に汗が浮かんでいるけれど、その眼はしっかりと謙信に向いている。
「人が死ぬかどうかは、戦で決まる物ではありません。私が、明日馬に蹴られて死ぬ可能性だって…」
自分の言ったことが可笑しかったのか、くすりと笑って。桜はそれに、と続ける。
「安土の武将達は、皆信念と誇りを持って戦に臨んでいます。謙信様も、そうなのでしょう?そんな謙信様を好きになれて、私はもう既に幸せです」
人を好きになるなんて、単純な事だ。けれど、その想いは主の意思を超えて勝手に大きく育っていく。
それが叶わなければもちろん辛いし、悲しいけれど。こんな素敵な人を好きだったんだと思える時が、きっと来るから。
「…すみません、今度こそ帰ります」
向かい合うように座っていた謙信にぺこりと頭を下げて、桜は立ち上がろうとした。けれどその瞬間、謙信に腕を掴まれ引き寄せられる。
「わっ…」
「勝手に帰るな」
「へ?」
意味が分からずに目を丸くする桜の手を掴んだまま、謙信はその体を横抱きに抱き上げた。
「ちょ…っ」
「落とされたくなければ、動くな…俺はもう、知らん」
「え…え?」
その宣言は、桜へか、それとも自分へか。
訳が分からないままの桜は、顔を赤くしながらも落とされてはたまらないとじっとしている。謙信は部屋を移り、自分が寝るために用意していた褥の上に桜を運んだ。